第1章 子供の頃

1 東京都大森区南千束百四十番地

筆者にとってこの土地は、生まれてから、昭和十九(1944)年の夏に一家で福岡県柳川へ疎開するまで生活をしていた所で、それ以降に住んだ場所に比して短い期間であったが、いつまでも記憶に残る古い思い出一杯の懐かしい土地となっている。

南千束を離れたのが小学校三年生(当時は国民学校)であった。

東急大井町線北千束駅そばにある赤松小学校に通っていた。都心ではないのに、南千束付近も米軍の戦略的爆撃の対象になるということであった。

子供達にとっては、そんなことを自分のこととして考えられるはずがない。柳川へ転校することは、集団疎開によって両親と離れて生活することが、「いつもどこの学校にでも居るガキ大将と寝食をともにすることへの不安よりまし」であるぐらいの軽い出来事であり、遠くへ行く旅のことしか頭になかった。

柳川への鉄道旅が楽しみで、途中停車の駅名を一生懸命記憶したことを覚えている。

わが家についていえば、当時都立第十一高等女学校(現桜町高校)に通っていた姉、赤松小学校六年の兄、筆者、下に弟、妹、妹と続いていた。

父や母が疎開について打ち合わせたり、子供に話をしたりした記憶は全く無い。ひょっとすると両親はあらかじめ決めていたのかもしれない。確か夏休みの前か後か、暑い頃だったと思う。みんなで荷物をまとめて家を出たのは。

筆者はその頃、以前から親戚の人や大人から手帳をもらう度に、それを大切に使い、まだ使っていないものを、家のお座敷の床の間の置物の裏へ隠しておいた。多分十冊くらいにはなっていただろう(手帳をもらっても書くことがない。予定もスケジュールも無いのだから。大人が手帳に書いている姿を見て羨ましく思ったこともあった)。

戦災で家が焼かれた時には、先に隠して保管していた手帳のことが一番気になった。惜しい気持ちと誰にも知られずにいたという安堵とが入り混じった気持ちで焼け跡に立ったのを思い出す(あの頃、焼け跡という言葉がしばしば使われていた。今では考えられないが、不審者が住み着いたり、違法建築物が建てられたり、不法投棄がなされたりすることは無かった。敗戦となったが、あるレベルの社会的秩序が保たれていたのである)。