【前回の記事を読む】麻布中、麻布高、東京大学…厳しい受験を乗り越えた“先”にあったこと
第2章 麻布中、麻布高、東京大学の頃
二年生の後半では、本郷へ進む専門学科の授業の一部が組み込まれ、新しい友人達との交流が始まった。駒場での二年間はその後の人生に大きな影響を与えている。特に小生は当時の富士製鉄(現在の日本製鉄)に入社したので、そこで駒場時代の友人に再会し、思い出を共有出来た。
会社の寮ではあったが、ストームがあり駒場の雰囲気のようなものを感じた。小生が音頭を取り、駒場の友人達とは今でもクラス会を催し定期的に会っている。皆第一線から身を引いている。気を遣う必要のない立場なので垣根を超えた話題が多く示唆に富んでおり楽しい。
本郷では理学部地学科地質鉱物コースに進学した。地上のことは知り尽くされているのではないか、海底地質学を勉強してみたかった。岩石学、堆積学、鉱物学、化学分析学、無機化学、有機化学などを三年で学んだ。顕微鏡による鉱物同定など技術も会得した。巡検旅行なども楽しかった。苦手だったのは、古生物学、いわゆる化石の研究であった。
色々悩んだ末、最終学年では渡邊武男教授の金属鉱床学講座を選んだ。卒論をどの講座の下で作成するかで決まる。クラスでは浜辺修二君が同じ講座で学び、卒業後も切磋琢磨した仲であった。彼は資源会社に就職、学会でも活躍した。多くのことを彼から学んだ。
三年での進学研究論文は「鈴鹿山脈の地質研究」、四年での卒業論文は「クロマイト鉱床の研究」であった。三年の夏休みは三重県の関、四年の夏休みは鳥取県日野町(根雨)に住み地質鉱床調査をした。
進学論文では、中学校の教室に住みこみ、牧巌君(後に名古屋工大教授)、西岡修平君(後に日本工営技師長)と過ごした思い出がある。大阪の木田江悦子・岩越加望子叔母がわざわざ遠路訪ね激励をして頂いたのが懐かしい。