卒論では当時の製鉄工程が平炉から転炉に置き換わる頃であり、煉瓦にクロマイトが使用され始めた時期で、クロマイト鉱床研究は重要視されていた。渡邊武男教授や品川煉瓦(株)の木村守弘先輩の指導激励が励みになったことを覚えている。
大学院へ進むかどうか悩んだ。自分の学力を試すつもりで国家公務員六級職試験を渡邊武男教授に内緒で受験した。順調に進み、複数学生による「集団討論」がなされた。テーマは確か「深夜喫茶は是か、非か」であった。皆そこまで進んだ学生らであったので、立派な議論がなされた。最終面接も合格し、採用が決定したが、渡邊武男先生に相談報告もしていなかったので、困った。
当時の通産省と農林省に技官として採用が決まっていた。同じ頃に時に富士製鉄でも筆記試験、面接試験がなされ、採用が公務員より早く決まっていた。従って渡邊武男教授にも富士製鉄へ行くことを申し上げ了解を頂いた。富士製鉄人事部のプログラムの一部には卒論研究で鳥取に行っていたので、参加出来なかったのを覚えている。
引用文献もすべて手書きの時代である。まとめや執筆に時間と手間を要した。本郷の四年生として卒業論文を出したあと、地質鉱物学コース十人で山中湖の大学の寮に行った。
「月謝滞納者は卒業式の一週間前までに納付しないと卒業させない」との電報が届いた。ほかの友達ほど驚かなかった。当時通っていた理学部二号館(赤門脇)は大学近代化計画で移転してしまった。肝心のテニス部に関しては、理学部の実験、地質調査などで、試合や練習に参加出来ないことが分かり、断念した。富士製鉄入社までお預けになった。