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第1章 子供の頃
5 赤松小学校
北千束にある赤松小学校には疎開の期間を除いて卒業するまで通った。名門で歴史があったので、近傍の小学校より少し上のランクにあったように思える。
小学校低学年での担当は、祖父永田保次郎家の隣に住む今井先生であった。今井先生は亡母喜与子と親しく、小学校に入る前から、始終家に出入りしていた。その人が担任になったので、子供ながらやりにくかった。
疎開から帰ったあとは、伯母の渡辺家(三軒茶屋)から通い、都営住宅に移ってからは武蔵小山から電車通学をした。睦子、献、慶喜、太寅までが赤松小学校卒で、下の妹ら、麗園子、絢子、和也は武蔵小山の後地小学校卒となった。
戦後のことでもあり、赤松小学校に行きたくない日は、東横線で横浜まで無賃乗車で行って東海道線の列車を見物し、時間を過ごして何食わぬ顔をして帰宅したりした。当時頻発していた教職員のストライキの時は、大岡山にある東工大のグラウンドに出かけ、皆で遊んだ。当時まだ航空機がグラウンドの隅に置いて
あった。洗足桜山にも出かけた。防空壕が残っていて、中にはタバコや、進駐軍の衛生サックが残っていたのを思い出す。友人宅隣の喜劇俳優古川ロッパ氏を見たことがある。当時エノケン、ロッパと有名であった。子供心にも、ロッパ氏は知的なインテリ、教養人の印象を受けた。