6 敗戦後のクリスマス

クリスマスが近づいてくると思い出すことがある。今この章の筆を執っている(1984年12月)このマレーシア国トレンガヌ州も暑い雨季の最中であるが、現地の日鉄食堂にはクリスマスツリーが飾られ、クワンタンのデパートにも中国語で聖救主降誕と大きな幕がかけられている。

太平洋戦争の米軍の焼夷弾で家を焼かれ、武蔵小山の都営住宅に一家十人が住んでいた頃のクリスマスは何も無い、静かなものであった。日曜学校時代から通っていた旗の台にある三光教会の礼拝に家族全員が参加して、クリスマスの祈りを捧げることがわが家のしきたりであった。

一方子供心にひょっとするとクリスマスの贈り物があるのではないかと想像をした。親にねだる訳にはいかない、クリスマスの朝枕元を見ると、何も無いのが敗戦後の常であった。しかし生活が苦しく何も出来ない両親の気持ちを推し量りながら、口に出すことせず、心の中に収め、寂しさを呑み込みながら礼拝に出ていた。

日曜学校では、それぞれクリスマスの朝の話が出るが、こちらとしては話題に入れない。仕方が無い。ニコニコして皆の話を聞くだけだった。

同じ日曜学校で一緒の親戚の水谷家には時々出かけた。ご馳走が出るほか、綺麗なお嬢さんが居るので出かけて行くのが楽しかった。今思えば、水谷史郎氏は敗戦後に、連合国から公職追放を受け、苦難の時期であったはずである。それを表に出さずにいた水谷氏は立派な人物であった。お嬢さんのひとりは東洋英和の中学生で、こちらは麻布中高に行っていたので、いつも行き帰りには一緒になる。麻布生が憧れる制服を着ていた。

あるクリスマスには彼女の友人のT嬢が来ていた。確か学者として著名なT氏の一族とのことであったが、沢山見る東洋英和の女学生の中で一番綺麗に感じた。一緒に賛美歌第百八番「主イエスキリスト降誕」を歌った。その後一度も会っていない。今もその家の前を通るとその頃を思い出す。

日本聖公会三光教会は創立時白金三光町にあった古い歴史のある教会である。日本聖公会は英国聖公会の流れを組んでいるので、英国からの婦人宣教師が常駐しておられた。わが家及び親戚一族はこの教会に籍を置いている。

日曜日の聖餐式に出るのは、両親からの厳命であった。隣の香蘭女学校の生徒さんも来ていて、華やかな雰囲気があった。日曜学校、青年会などの活動や、イベントを通して、家族ぐるみの生涯を通じた友人も出来た。数代にわたる交誼は貴重な財産である。

小泉信三、頼山陽、二宮尊徳、大久保利通など歴史的人物の子孫にも毎週お会いしている。藤田家は子沢山で親戚も多く、兄弟で礼拝のサーバーをしたり、教会合唱団や室内合奏団を父経秋が指揮していたこともあり、兄弟姉妹で参加していた。弟の元NHKの藤田太寅が教会活動に一番熱心であった。教会委員ほか活躍をしていた。一番早く天に召された。神様に好かれていたのかもしれない。