そのひとつが「ワンワン運動」であった。これは高炉職場のひとりひとりが、毎日何か高炉にとって有益なことをひとつやろうというものである。設備改善、操業への工夫、物品の整理整頓、改善提案、安全提案など職場から沢山の良い意見や指針が集まり、職場の活力が十分発揮された。
丁度この頃に広畑製鉄所製銑部が創立三十周年(昭和五十九年十月、1984,10)を迎え、小田部精一部長の下で盛大な式典が行われた。音楽家の息子である筆者が広畑製銑部歌の作曲をしたのもこの頃である。自宅(社宅)に大勢集まって恵津子のピアノ伴奏で練習をしたのを思い出す。懐かしいひと時であった。今も広銑会の締めくくりとして参加者一同で合唱をしている。
当時の富士製鉄は、名古屋製鉄所の拡大期にあり、同時並行で大分製鉄所の建設が進行していた。広畑製銑部からも多くの優秀な人材が転勤した。大分転勤の和栗真次郎氏の後任として昭和四十四年七月(1969,7)に高炉掛長(昭和四十六年十月、1971,10まで)に任命された。
高炉が三基稼働していたが、前述した通り、昭和四十五年四月(1970,4)に八幡製鉄と合併後の最初の新設高炉として広畑第四高炉が火入れ稼働した。四基の高炉での生産を担当する立場になった。新日本製鉄で四基の高炉操業を担当したのは初めてであり、三交代業務の引継ぎなど多忙であった。
優れた経験者スタッフが名古屋や大分に移動し、現場力が低下した中での四基稼働には神経を遣った。上司、同僚、部下に助けられ多くのことを学ぶことが出来た。思えば矢野武二氏、小林健二氏、山野先輩など事務所に、現場には服部氏、萩氏など優れた人材が残っており、大いに助けられた。その後多くの職場を経験したが、当時の広畑製鉄所のスタッフとともに生き、ともに働けたことに今も感謝をしている。
高炉は高熱重筋の製造現場であり、火傷、ガス中毒、重量物下敷きなど災害防止活動、安全活動が重要であった。
「災害防止がすべてに優先する」
ことを実践した。自宅(社宅)への夜間電話にはいいことがない。嫌であった。経済的ロスは挽回可能であるが、人命ロスは取り返すことが出来ないのである。当時自宅から下着、パンツを会社に持参していた。高炉炉回り、特に炉底の点検をやると作業着どころかパンツ、又その下まで汚れてしまう。お母ちゃんの下半身が汚れて困るという冗談も聞かれた。ゴールドワージーというオーストラリア鉱石は油性があって、風呂に入っても皮膚から除けなかったからだ。あの頃の職場の活気と家庭との繋がりが懐かしく感じられる。