このように商業活動が活発化したのには、イギリスではすでに資本主義的金融システムが定着していたこともありました。ではなぜ綿織物が産業革命の端緒となったのでしょうか。

産業革命の前のイギリスの輸出品の中心となったのは毛織物でした。毛織物産業はイギリスでもっとも重要な産業となり、そのうちに優先的に保護と規制を受けるようになっていきました。織物の長さ、幅、重量、織物の伸ばし方、染色方法、原毛準備の原料、毛織物の仕上げ、たたみ方、販売のための荷造り、けば立て機の使用などに関する規定を持つ法令がたくさんできました。

この規則を守らせるために、多数の専門官吏、すなわち、計量検査官、監督官、会計検査官などが設置されました(戦後、日本で食糧管理法によって米作農業が保護され、全国に何万人もの食糧管理事務所員がいたことが思い出されます)。

これらの規制の主目的は消費者の保護ということでしたが、不正な製法と必要な改良の見境もなく、いずれも禁止してしまいましたので、いっさいの技術進歩が止まってしまいました。

このイギリスの国民的産業となった毛織物産業に対して、綿織物産業はなきに等しいものでした。まず、そもそも原料の原綿がイギリスでできませんでした。それに対しインドは木綿の原産地といわれ、綿布は古くからインドの主要輸出品でした。

すでに一七世紀には、東インド会社がインドから大量に綿織物(綿花ではなく、綿織物でした。機械化する前はインド人の手工業綿織物が安かったのです)を輸入して、消費ブームを引き起こしていました。このブームはやむことがなく、このような強力な需要を背景にして国産綿織物が躍進することが期待されましたが、しかし原料輸入で、しかも安価で良質な製品がそう簡単に国内で(人件費の高いイギリスで)生産されるわけがありませんでした。

しかし、この綿製品については、これといった国内の規制はなかったので、ここに技術革新が入りこむ余地はありました。はたして技術革新で生産コストを徹底的に安く、つまり、インド産綿織物より安く生産できるようになるでしょうか。

ここで初めて産業革命の技術革新が登場することになりました。従来の産業革命論では、まず発明ありきでしたが、最近の研究では、やはり「必要は発明の母」ということを証明しています。この綿織物を国内で安く大量に作りたいという動機が、イギリスで、ジョン・ケイの飛び()にはじまる技術革新を促し、産業革命の発端になったと考えられています。