【前回の記事を読む】圧倒的な経済力…世界最初の産業国家・オランダの繁栄
第一章 資本主義の誕生
《三》世界最初の産業国家オランダ
オランダの海外進出と植民地経営
オランダの黄金時代の繁栄は、国内の産業振興と中継貿易だけでなく、海外の植民地経営からの富によっても、もたらされました。
オランダ人がアジアやアメリカ新大陸に目を向け始めたのは一六世紀末で、スペイン・ポルトガルに比べると約一〇〇年も遅れましたが、これも驚くほど急速にスペイン・ポルトガルに代わって主導権を握るようになりました。その発展の端緒は東インド会社の設立にありました。
一六〇〇年にイギリスが東インド会社を設立したことがオランダには脅威になり、オランダも一六〇二年にオランダ連合東インド会社を設立しました(以下東インド会社と呼びます)。
東インド会社の資本金はイギリス東インド会社の約一〇倍でした。しかも現在の株式会社とまったく異なって、国家にかわって武力で植民地経営を押し進め、利益を本国に還元するというものでした。この会社は総督を任命したり、必要に応じて要塞を築いて兵士を駐留させたり、アジア各地の王侯と条約を結ぶことも認められていました。
会社は単なる貿易会社ではなく、外国の拠点を攻撃し、場合によってはその奪取をねらった戦争遂行のための国策会社という側面も強くもっていました。
結果的に、この東インド会社は一七世紀末には、一万二〇〇〇人を直接雇用するにいたり、およそ二〇〇年ほどの間に、一〇〇万人ほどの人間をアジアに送り込み(三人に一人しか帰国しませんでした)、西は紅海入口のモカからペルシア(イラン)、インド、セイロン、ベンガルを経て、ビルマ、シャム、マレー、インドネシア各地、台湾、日本にいたる広大な海域に、約二〇ヶ所の要塞と数多くの商館をおいて手広い貿易活動を展開しました。
オランダはアジア地域だけでなく、南米地域(西インド会社)、北米地域(ニーウ・ネーデルラント会社。ニーウ・アムステルダム)、南アフリカのカープスタット(ケープタウン)などでも植民地活動を行いました。