翌朝。光三はやや緊張した面持ちで、市内中心部に厳めしい佇まいを見せているレンガ造りの県庁舎へ初めて登庁した。
県庁前の大通りには市電と乗合い自動車が行き交い、その脇を野菜や魚をつるした天秤棒をかついだ女性たちが売り歩いている。昭和恐慌後で経済状況はよくないと聞いているが、朝の街には活気がある。
正面の石段を昇って玄関に入ると、末永正と名乗る働き盛りの秘書課長と秘書嬢たちが整列して迎えてくれた。すぐに、玄関ホールからつづく大理石の階段を伝って、重厚な調度品が置かれ、厚いカーテンが掛けられた知事室に案内される。
光三は白いカバーに包まれた知事の椅子に収まって、これからの仕事場になる室内を見まわしながら、よっしと気合を入れる。ゆっくりする間もなく、庁内の幹部職員を講堂に集めて新知事としての訓示を行う段取りになっていた。
官選知事にとっては、着任後最初の庁内からの評価にかかわる大事な儀式である。
光三は壇上に用意された演台の前に立ち、部長、次長級の幹部職員が数十名ほど立ち並ぶのを見下ろして、県知事としての第一声を発した。その声には、幾らか興奮が混じっている。
(本県は大正の末期より内外の諸情勢を鑑みて、整理緊縮、勤倹力行、県財政の基盤を確立するために、一丸となって邁進してきたと聞いておる。その結果、県勢は躍進して、諸般の公共施設も充実整備されてきたようであり、喜ばしく思う)
光三は、目の前に参集している幹部たちを上手く使いこなしていくのが課題だと認識している。もちろん、これまで大過なく務めてきた三度の知事経験から不安な気持ちはいささかもない。薩摩隼人は手強いから甘くみてはいけないと聞いてはいるが、自分は円滑にやっていけるだろう。中央からきた新しい官選知事を値踏みするような表情を一様に浮かべている幹部たち。その集団を落ち着いて見渡しながら、光三はよどみなく訓示をつづけた。
(しかしながら、昭和の御世に入って発生した世界恐慌に伴い、本県においても経済、財政の現況には容易ならざるものがあると承知しておる)
最初の訓示の締め括りには、いつも好んで使っている気合という言葉を加えたい。
(本官は本県知事を拝命し、この困難な状況を迅速に克服して、県勢のさらなる発展にむけて専心精励する所存である。幹部諸君には、全員が気合をそろえて、よろしく支えていってもらいたい)
光三は原稿も手にせず、予め告げられていた時間ピッタリに訓示を終えた。
自分の第一声の出来映えに手応えがある。告示の言葉は型どおりであったとしても、光三は近代ニッポンの夜明けに力を尽くした鹿児島の地を、自分の在任中にさらに飛躍させたいと本心から念じていた。幹部たちにも、気合十分な自分の想いがしっかりと伝わったものと信じたい。