【前回の記事を読む】原爆投下…日本への「事前の警告なし」と決定された理由
原爆投下に反対だった国務省
スティムソンはこの決定に不満で、こののち国務長官代理ジョセフ・グルーが五月頃から起こしていた動きに加担し始めました。グルーはルーズベルトがスターリンと結んだ極東秘密(ヤルタ密約)がソ連の東アジア進出につながることを危惧していて、ソ連の参戦前に日本を降伏に導くことで、この密約を空文化させることを目指していました。
日本が早期に降伏すれば、原爆投下も避けられる―スティムソンは、これが暫定委員会の決定を無効化する有力な代替案と考えるようになりました。
この頃、沖縄戦の最終段階でした。六月一二日に九州上陸作戦が議論され、これが実行されれば、試算ではアメリカ側におよそ六万人の死傷者が出ることが指摘されました。スティムソンは、陸軍省や海軍省の幹部たちとともに、この犠牲を避けるため、無条件降伏原則を変え、条件を提示して日本を早期に降伏に導くことを大統領に直訴しました。
軍人たちの圧力を受けてトルーマンは「ではその条件をとりまとめバーンズ(まだ国務長官に就任する前でした)のところに持っていくように」とスティムソンの副官ジョン・マクロイに命じ、その場をおさめました。翌日マクロイが皇室維持条項を中心とする降伏案を持っていくとバーンズは「この条件はアメリカ側の弱腰ととられるので受け入れることはできない」と却下しました。
つまり、トルーマンはバーンズに話を振って、彼に拒絶させたのです。官僚たちは大統領とバーンズの間でうまくコントロールされていました。
それでもなおスティムソンは、降伏条件を強い「警告」と置き換えて、七月三日、ポツダム会議に向かおうとしているトルーマンに「このような政府が二度と侵略を希求しないと世界が完全に納得するならば現皇室のもとでの立憲君主主義を含めてもよい」(第一三条)という文言が入った「警告」案を渡しました。
これも後述しますように、大統領に代わって返答したバーンズによって阻止されてしまいました。
しかし、日本の敗戦が決定的となり、アメリカ国務省内では、戦後日本との関係に悪影響、特に経済的関係に悪影響を及ぼすことになるとして、日本への原子爆弾使用に反対、その後も軍トップも巻き込み戦争を早期終結させるための最終的な取り組みをしていました(この国務省の根回しで軍トップはほとんど日本への原爆投下には反対でした)。
戦後直ちに日本を取り込み、自由主義経済国家としてソ連(共産主義)の南下を防ぐ、そのため、最初のポツダム宣言草稿には、日本側がポツダム宣言を受諾しやすいように、降伏条件に天皇制護持を盛り込ませていました。