第一章 巡り合い

そもそも神を自分の外に作ることによって、自分は神様じゃないからできない、神様の教えを歪曲(わいきょく)して、「これが神様の教えだから、別宗派の神を信じる人たちを差別して、自分の宗派の神を信じる人たちが尊重特別視されなければならない」、こんな考え方が悪の根源のように私には思えてならない。

ただし自分教という、いわゆる自分しか信じない、そういう信仰の人は強いように見えてもろいと思う。何故なら人間は、楽な方向へ楽な方向へと流される生き物だからである。そして潜在(せんざい)的には、差別の目で物事を見る、目に見えない矢が誰にも突き刺さっていると思えるのである。

我々人間という生き物は、今までの学校教育やいろいろな場所で教わった知識をもとに、一つ一つの物事を分析、精査(せいさ)するものなのである。

ではその知識を教えてくれたのは誰であろうか? それは同じように目に見えない矢が突き刺さった、偏見を持った、同じ人間なのである。本当に偏見なく、物事を見て判断できるのは赤ちゃんだけなのである。あとの人たちは何らかの思想に(かたよ)っていることが多い。

だからこそ我々には、トルストイや、マハトマ・ガンジー、マーティン・ルーサー・キング牧師のような、非暴力を訴えてきた指導者、平和思想を標榜(ひょうぼう)する人生の師匠が必要ではないかというのが、私の率直(そっちょく)な結論なのである。

神様はいるとすれば、自身の生命の中。例えていうならば、磨かれていないダイヤモンドの原石が、誰の生命の中にも存在するのである。磨かれていない、自身の生命のダイヤモンドを磨くためには、我々には正しい非暴力の実践者、指導者、すなわち人生の師匠が必要であると私は思う。

ロバート・ハミルトンとは、趣味から書く内容まで共感が持てた。本当に自分にはもったいないくらいの友人に思えた。実際のところ、私は最初から彼のような、生死のことを面と向かい話せる友人が欲しかったのだ。私の周りには、生死の問題に口を閉ざす人たちばかりだったからである。いや現代人は生老病死の問題を常に、皆避けて生きているのである。私の心は常に彼を求めていた。

「ロバート! ロバート! ロバート!」

自分よりも若くして、生死の問題に深く向き合わなければならなかった彼の境遇(きょうぐう)。それは、私が求めていた真の友人の偽らざる姿であった。だからこそ私は、彼を少しでも元気づけたかったのである。

幸い彼は、私の手紙を毎回本当に楽しみに待ってくれていた。彼は私の命の恩人なのである。弱冠十九歳のロバートと知り合い、文通していた期間はわずか四ヶ月間だけであったが、私には四年の価値のある大切な思い出の期間だった。