【前回の記事を読む】明治維新に先だった近代中国の改革「洋務運動」が失敗したワケ

第一章 第一次世界大戦までの日米中

日清戦争と下関条約

一八九四年春、朝鮮で民生改善を求める農民反乱・甲午農民戦争(東学党の乱)が起き、五月三一日、農民軍が全羅道首都全州を占領する事態になりました。

朝鮮政府は、清への援兵を決める一方、農民軍の説得にあたりました。一八九四年六月五日、清の巡洋艦二隻が朝鮮の仁川沖に到着しました。日清両国は出兵する時は相互に照会することを義務づけていました(一八八四年の天津条約)。そこで天津条約に基づき六日に清が日本に対し、翌七日に日本が清に対し、朝鮮出兵を通告し、日本は一六日、約四〇〇〇人を仁川に上陸させました。

しかし、すでに朝鮮政府と東学農民軍が停戦しており、天津条約上も日本の派兵理由がなくなりました。軍を増派していた清国も、漢城(現在のソウル)に入ることを控え、牙山県を動きませんでした。朝鮮は、日清両軍の撤兵を要請したものの、両軍とも受け入れませんでした。

日清両国がお互いに兵を引かないまま、七月二五日に豊島沖海戦が、二九日に成歓の戦いが行われた後、八月一日に日清両国が宣戦布告をしました。ここに日清戦争が勃発しました。日本軍は、九月一六日の平壌の戦い、翌一七日の黄海の海戦に勝利し、一〇月二四日に鴨緑江を渡って清国領内へ軍を進め、一一月二一日には旅順を占領しました。

翌年一月に山東半島に上陸した日本軍は威海衛の諸砲台を占領しました。二月一二日、威海衛に集結していた北洋艦隊の司令長官(てい)(じょ)(しょう)は自決し、翌日、北洋艦隊は降伏しました。

山口県下関の春帆楼において清国の李鴻章らと講和会議が開始され、一八九五年四月一七日、下関条約が結ばれました。その主な内容は、①朝鮮の独立の確認(清朝との宗属関係の破棄)、②遼東半島、台湾、澎湖島の割譲、③賠償金(銀二億両)の支払い、④片務的最恵国待遇の付与、⑤重慶、蘇州、杭州などの開港、⑥開港場、開市場における日本人の企業経営権の承認などでした。

なお、翌一八九六年に、下関条約に基づいて締結された日清通商航海条約によって、日本は領事裁判権、協定関税、片務的最恵国待遇の点で欧米列強と同等の地位を中国において獲得することになりました。

講和条約調印後の一八九五年四月二三日、ロシア、ドイツ、フランス三国によるいわゆる三国干渉が起きました。三国の公使は日本政府に対して、旅順・大連のある遼東半島の領有は中国の安全、朝鮮の独立、極東の平和にとって障害となるという申し入れを行い、同時に下関条約批准書交換の予定地である煙台(山東半島東部の威海衛の西隣りの港湾都市)に軍艦を集結して武力示威を行いました。

日本政府は結局、これを受け入れざるを得ず、あらためて同年一一月八日に北京で還付条約を結び、銀三〇〇〇万両の報償金と引き換えに遼東半島を返還しました。その結果、日本が海外に領有した最初の植民地は台湾と澎湖島となりました。