【前回の記事を読む】まさに弱肉強食…日清戦争後に行われた列強国による清国分割
第一章 第一次世界大戦までの日米中
清国の改革と失敗
清仏・日清両戦争での敗北は、洋務運動でのヨーロッパ技術の導入という表面的改革が無力であったことを示しました。そこで、康有為が中心となって、明治維新を行った日本にならって立憲君主制を樹立し、清国の伝統的体制を根本から変革しようとする変法(改革)運動が説かれました。
一八九八年六月、光緒帝(在位:一八七五~一九〇八年)は康有為、梁啓超、譚嗣同らを登用し、「国是の詔」によって、清朝中央の変法(改革)を正式に開始しました。これを戊戌の変法といいます。
具体的には、科挙の改革とそれに代わるべく計画された近代的な学制の整備、新式陸軍の創設、訳書局・制度局の設置、議会制度の導入など、主に明治日本に範をとった改革案が上奏され、光緒帝は、次から次へと改革の上諭を下しました。
しかし中央と、地方の大官たちは傍観しているだけで、変法の上諭はほとんど実践されませんでした。
一八九八年九月、西太后は、袁世凱を使ってクーデター(戊戌の政変と言います)を起こして、皇帝側の動きを封じ込め、以後西太后が摂政となり保守的・排外的な政治が進められました。