北京議定書の締結
一九〇一年、清国にとって屈辱的な北京議定書が結ばれ、中国の半植民地化が決定的となりました。
北京議定書では、
(1)四億五〇〇〇万両の賠償金の支払い
(2)首謀者の処罰
(3)外国軍隊の北京駐在
(4)北京周辺の防備撤廃
などが取り決められました。
この北京議定書で定められた賠償金四億五〇〇〇万両(利払いを含めると八億五〇〇〇万両になります)という額は、年間予算一億両足らずであった当時の清国にはまさに天文学的な要求でした。さらにその賠償金の支払い源も関税など確実な収入を得られるものを差し押さえる形で規定されていました。
その後清国はこの支払いを履行しましたが、莫大な拠出はその後、民衆への税の増額という形で負担がのしかかり、さらに困窮にあえぐこととなり、清国への不満が高まりました。
さらに北京議定書では、「清国は、列国の海岸から北京までの自由交通を阻害しないために、列国が同間の各地点を占領する権利を認める。その地点は、黄村・楊村・郎房・天津・軍糧城・塘沽・盧台・唐山・濼州・昌黎・秦皇島及び山海関とする」という規定があり、公使館周辺区域の警察権を列国に引き渡したり、海岸から北京までの諸拠点に列国の駐兵権を認めたりすることは、清国領域内でその国権が否定され、列国が統治する地域が生ずることに他なりませんでした。
たとえば、日中戦争の端緒となった盧溝橋事件において「なぜ日本が中国の領域深くまで当然のように兵を置いていたのか」と言いますと、北京議定書に基づく権利の行使により、日本を含む八ヶ国の列強が各地に駐兵していたのです。
この義和団事件の結果、中国の半植民地化は決定的となりました。