【前回の記事を読む】【小説】「さあ船出だ」故国に向けての出航の時が来た…
第一章 「持衰」
安羅子の様子はといえば、十日ほどは姿勢正しく端座を保っており、近づく者たちには航海の無事を彼に託して敬うような仕種を示す者もいた。
だが日を重ねる内に、持衰として顔や体も拭えず髪をくしけずることも叶わず、衣服も垢で汚れたままの姿で座している。日ごとに体力も徐々に衰えていき、端座に堪えられなくなり体を横たえるようになってきた。そして死人の如き姿と異臭で彼に近づく者もその内いなくなった。
船は相変わらず順調に航海を続け、船泊りを重ねながら出雲も過ぎ、二十日余りで丹後半島の西の付根にあたる久美浜に到着した。この度の航海もほぼ最終段階を迎え、これからは半島伝いに迂回し泊りを重ねながら宮津を目指す。後は若狭湾を陸伝いに船を進め一気に角鹿に向かえばよい。
ただ半島巡りは「北の海」の中でも最も難しい水路ではある。二日の潮待ちと十分な休息を得て船はいよいよ出航した。ほどよい南風に帆を活かしながら、しばらくは気持ちよく北上している。男大迹は船中の者たちに励ましの声をかけ、皆の様子に満足げに船尾まで足を運んだ。
そして艫の安羅子のそばに近づき屈みこんで顔を覗いた。安羅子はここ数日と同じように膝を抱えるように曲げて体を横たえていた。男大迹は顔を近づけ囁くようにつぶやいた。
「よく今日まで辛い日々を務めてくれた。あとしばらく耐えてくれ、頼むぞ」
と声をかけた。すると安羅子の瞼がピクリと震え、静かに眼を開いて男大迹に応えている。その瞳に微かに笑みを見つけ、男大迹は安堵を胸にその場を離れた。船はちょうど半島の北端を過ぎ、その進路を東に切ったところである。
次の寄港地である伊根は南に回り込めば夕暮れ前には十分着ける。その時、船尾に立つ百魚は右頬にさっと冷ややかな風を感じた。振り向くと黒い雲がむらがって船に追いつこうとしていた。嫌な予感がよぎり帆柱に眼をやると、旗が方向を定めず踊るような勢いでたなびきだしている。
百魚は天候の急変に対応するため、「すぐ帆をたため、左舷は力一杯漕げ!」と叫び、自身は一段と長い櫂を海に突っ込んで、船の舵取りをしようとするがままならない。瞬時にして黒雲は船を覆い周りはたちまち昏くなる。