【前回の記事を読む】【小説】「俺は高校を2か月でやめた」少年が受けた屈辱とは

一粒の種子(たね)

連休は俺にとって、学校へ行くより憂うつなんだ。母さんは接客応対の仕事なので、世間が休みの日の連休は書き入れ時だ。朝昼のご飯がないのはわが家では当たり前、日中お客が立て込んだ日には夕飯のことも頭にないみたいで、仕事のあと手ぶらで帰ってきて、俺がコンビニに行くなんてしょっちゅうだ。

四歳頃から父さんの記憶は消えている。だいたい、いつまで家族三人が同じ屋根の下に一緒に住んでいたか覚えていない。父さんの姿は輪郭だけしか思い出せなくて、いつも西日だけしか当たらない、夏は地獄のように暑い台所で、機嫌が悪くしゃべらない父の背中が見えたところで記憶が止まる。

今年は運がよく、連休の前日に俺が熱を出した。なぜ運がよいのかというと、家事を言いつけられないで済むからだ。母さんは看病してくれるわけでもなく、いつもどおり仕事に行った。うちでは風邪ぐらいでは病院には行かない。

覚えている限りで病院へ行ったのは、予防接種か、俺がうんていから落ちて頭を思い切り打ち、気絶したときぐらいだ。小学校低学年だった。救急車で運ばれたようだが、記憶はない。気がついたら母さんがいた。殺風景な病室、仕事の合間に抜け出してきてくれたみたいで、母さんの顔は険しかった。

(よう)、あんたなにしてるの? 私が仕事忙しいの、知ってるでしょう?」

大丈夫かでも、無事でよかったでもなく、母さんはすこぶる機嫌が悪かった。このとき、俺は悟ってしまった。ドラマで観る母親と違って、母さんはそこまで俺を心配していない。うちは決して裕福ではないから、少しぐらい具合が悪くても、我慢する癖がついていた。

小さい頃から、母さんにだけは嫌われないようにと、子どもなりに努力してきた。なぜそこまで自分の親に対して気を遣うのかと、近所の人に聞かれたことがある。なぜと問われてもうまく言葉にできないけど、それは事実、俺が母さんを好きなことと、それから根拠のない強迫観念みたいなもので、母さんに捨てられたら生きていけないと強く信じ込んでいたからだ。