一粒の種子(たね)

ただ一人で育ててくれた母さんの、笑った顔を覚えていない。カーテンの奥にある、俺の寝床に入ってくると、いつも小言ばかりだった。

「あんたは何時まで寝ているの? ゴミをまとめなさいと言ったでしょ。毎晩遅くまでゲームしているから、朝起きられないのよ」

出勤前、急いでいるなら俺の寝床に寄らなければいいのに、必ず布団を剝がして母さんが言う。それもそのはず、俺は高校を二か月で自主退学して、以来ずっと部屋にこもっている。きっかけは些細なことだった。入学式の次の日、担任の女教師の言ったひとこと。

「坂本、あなたは背が低いんだから、身だしなみだけでもキレイにしなさい」

こんな差別的なことを言う教師がいるなんて驚きだった。それもみんながいる教室で。少し髪が伸びていただけで、少し爪が伸びていただけで、今どきこんな言い方はしないだろう。中学からの同級生が揃って入学した高校、同じクラスに密かにタイプの女子もいた。プライドが粉々で、恥ずかしくて耳が熱かった。

女教師に注意された俺を見て、途端にみんなが引いていくのを感じた。教室の温度が急に下がったように思えたのは、どっと冷や汗が吹き出したせいだけではないだろう。放課後、俺を避けるように、みんなそそくさと帰ってしまった。そう感じるのは、自意識過剰だけではないと思う。この一件のせいで、俺の楽しいはずの高校生活は、ドン曇りになったのだ。

これまで俺には顔見知りはいても、仲間と呼べる友達はいなかった。それでも登校すれば、仲間ができるかもしれないと思って、次の日もまた次の日も登校した。教室に入って精一杯の声を出す。

「おはよう」

誰もなにも言わない。みんなシカトかよ。だいたい、なんでこの高校は、入学式の次の日に実力テストがあるんだ。自慢ではないが勉強は、得意ではない。なんと実力テストから一週間後、成績の悪い順番に、結果が廊下に貼り出されていた。予想はしていたけど俺の順位はクラスでビリ、学年で後ろから二番目だった。もともと当たりが強かった担任が、露骨に嫌味を言うようになった。