何故だか、幸いにして六角勢の追撃はなかった。

手負いとなった味方は数知れず、見るも無残な有り様となりながら、儂らは西院まで退いた。それに引き替え、儂の敗けに引き摺られる形で止むなく兵を退いた義長様は、堂々の帰還を果たされた。松山重治も無事に帰城したが、鎧の左の大袖が取れかかっていて、折れた矢が二本突き刺さっている。

「霜台殿、よくぞご無事で。酷い目に遭いましたなぁ」

「松山殿も酷いお姿じゃ」

儂は苦笑いして返した。

六角勢はその後も勝軍地蔵山城に留まったまま、何故か動かなかった。

永禄五年(西暦一五六二年)

年が明けても儂ら三好勢は、義長様が梅津に、儂と松山殿は西院にそれぞれ陣取り、対する六角勢は勝軍地蔵山城を動く気配を全く見せなかった。

「叔父上たちは、いかがされておいでであろうか」

義長様は和泉・河内方面の戦況を気に掛けておられたが、あちらも睨み合いが続いていて、実休率いる三好勢は岸和田城から東に一里の距離にある貝吹山城に本陣を据えたまま、特に動きを見せなかった。ただ、岸和田城を囲んでいる畠山の陣には続々と兵が集まり、守護代の安見宗房が復帰したほか、長慶様の奥方様の弟の遊佐信教までもが敵陣に参陣したという。

儂が留守にしている大和国でも、六角承禎の呼びかけに応じた反松永勢力が一揆を起こし始めたというが、京にいる儂は、どうにも動きの取れぬ状況にあった。