【前回の記事を読む】慶事に次ぐ慶事。喜ばしい空気のなか松永に下賜されたものは…

永禄四年(西暦一五六一年)

弥生の末、公方様御成りの日を迎えた。京の立売に新造された三好義長邸は緊張感に包まれていた。

儂は〈御成り〉を迎える義長様の後見人として公方様をおもてなしする側でありながら、公方様の御供衆として給仕する御役目もあり、実に難しい立ち位置であった。

が、そうした心配は杞憂に終わり、家臣らの顧慮(こりょ)にも助けられて、つつがない饗応と、将軍家と三好家を繋ぐ重要な役割を滞りなくこなすことができた。

閏三月、三好実休も将軍家相伴衆に加えられ、朝廷より従四位下に叙せられた。

口さがない噂では、

「孫次郎(義長様の通り名)はともかく、我らを差し置いて、三好一族でもない久秀如きを昇叙させたのは、順序が間違っているのではないのか」

と、実休が息巻いていたという。

朝廷や幕府から厚遇を得た三好家は、山城、大和、摂津、河内、和泉、丹波、淡路、讃岐、阿波のほか、播磨、伊予などの一部も勢力下に置き、版図は十ヶ国以上に及んでいた。

長慶様は〈天下人〉と呼ばれるに等しく、そのため多くの諸大名は三好家に(よしみ)を通じてきた。

そうした栄華のただ中にあった三好家の陰で、〈鬼十河〉こと十河一存が亡くなった。

「それはまことか」

将軍義輝公御成りの後、ひと息ついているところに訃報が届いた。

使者が届けた書状を儂は広げた。