絵本との出会い
小学校に入学した日、この世に図書館という世界があり、本がたくさん並んでいることが一番驚きだった。村には本屋もなく、『コタンの口笛』を一冊読んだだけだった。その代わり祖母の家に泊まると、祖母はよく昔話をしてくれて、私たちを夢中にさせてくれた。
アンデルセン、アラビアンナイト、イソップ童話、天の岩戸、海彦山彦、因幡の白うさぎなどの神話など、図書館には多種多様な本が並ぶ。「今日は何にしようかなあ~」なんて、ルンルンしながら小さな幸せをランドセルに入れて背負い、帰り道を歩いた。
そういった絵本の中でもアンデルセンの『白鳥の王子』は格別だった。後にこの物語が私の記憶を取り戻してくれたのだから、子ども時代の読書体験がいかに大切だったのかを思い知らされた。そんな記憶ばかりで、初めての担任の先生がどんな人だったのか思い出せない。それどころか、中学校卒業まで担任の先生が誰だったのかも覚えていない。私はまったくおかしな子どもだった。
中学の時の国語の恵子先生と再会した時、私がさっぱり授業を聞いていなかったことをご存じで笑い合った。私は先生が国語の先生だったことも忘れていて、面白い会話が弾んだ。
悪ガキの一方で、私は空想好きの子どもでもあった。ギリシャ神話に、太陽の神アポロン(ヘーリオス)の息子パエートンが太陽の戦車を暴走させ、ゼウスの怒りを買い、火の車輪と一緒に死に絶える物語がある。この神話は私に異常なほどの感動をもたらした。
天空には不思議な世界が存在するのだと思うようになり、空の色や雲の形をある感情を持って眺めるようになった。今もそれが続いていて、後にヘッセやボードレール・西谷啓治につながるなんて、思ってもみなかった。また、フランスの哲学者・評論家のアランが書き残した『生きること信じること』を読み、私の本質が何となくわかったような気がした。
アランはこう語っている。
「子どもにどんな本をすすめるかと訊かれたら、ホメロスを、聖書を、寓話を読んだらいいと言おう。(略)人が個人(個)としてある幼い時というのは、人間という種(人類)が種としてある幼い時(幼稚さ)と酷似している。だから人間が、はじめ、どうやって考えを抱くのかを知りたいなら、もっとも古い本を読むがいい。人類の叡智をその源までたどってゆけば、そこには魔法使いたちがいる。英雄たちがいる。そして神々がおられる。そこからオーギュスト・コントとともにこう言っていいだろう。どうやって幼稚さから成熟さに到るのかが真実わかるのは、人間が種として存在するところ以外にない」と。
アランの『芸術論20講』『幸福論』も示唆に富んだ愛読書である。