夜中に戸を叩く音が…

他方、あの事件以後の大は、派の仲間たちとそれに抗議する反派の者たちとが、激しい武力衝突を繰り返していた。報復が報復を呼び、憎しみが憎しみを呼んで、殺し合いは留まることを知らなかった。

彼らは、党派闘争を制して権力を奪取する、というレーニン主義に囚われているかぎり、殺し合いを止めることができないのだ。そうやって、学生運動は死者の数を増しながら、衰退の一途を辿っていった。

事件そのものは捕まった仲間たちの黙秘によって、真相不明のまま時を経ていったが、ついに一文の書記長が自白したことによって解決に向かった。私はそれによって、公安に捕まる恐れから解放されたが、どうしようもない空しさに襲われた。

次の年の春がくると、行き迷った私は、自分の絶望の原点に立ち返って、やり直そうと、長崎の医学部の試験を受けて、もう一度失敗した。私は下井草のアパートに閉じ籠って、飢えても立ち上がる気力を持たなかった。私は空しくくずおれたまま、神を呪って、なぜ助けてはくれないのか、と問うた。

そして、立ち上がれないままに時を過ごし、家賃を溜めこんで大家に責め立てられ、やっとビルの清掃のバイトに就いた。私は刀折れ、矢尽きた敗残兵のように、絶望の重荷を背負って東京をさ迷った。食うや食わずの生活だった。

電車賃を無くしてバイト先から、自分の住処まで歩いて帰ったこともあった。道もわからずに当てずっぽうに歩いて、一昼夜かかって、やっと次の日の午後、偶然、自分の住処に辿り着いていた。

そんな荒んだ生活をしたせいか、その夏にはひどく夏負けして暑さに喘いだ。そこには生きて存在していることに、どうしようもなく苦しむ自分がいた。私は疎外されて至るであろう死を、受け入れることができないかぎり、自己自身から逃れ出て、我が身を売り渡して働く者(賃労働者)とならざるを得なかった。

私はそうして体制に支配され、自己疎外に陥っていったが、その自己疎外にも耐えていられないことによって、また体制から逃げ出して自己自身であろうとした。そして、また同様に窮乏化することによって、自己自身であることを放棄して、再び体制に屈しなければならなかった。

私はそんな絶望のシーソーゲームを繰り返しながら、自信と誇りと力を失っていった。私はそんな絶望の泥沼で足掻きながら、屈辱に塗れて生きていった。