理解されない苦しみ
今度は買い物に行くと言う、お由にまた、麻衣はついて行く。近くに市場がある。その市場で買い物するのだ。お由は、まず八百屋に行った。沢山の青物が置いてある。みずみずしい。お由は一つの青物を取り上げた。
「これ下さい」
「はいよ、十文です!」
お由は八百屋の旦那の唇を必死に見ている。わからなかったようだ。
「あのー、いくらですか?」
「十文だ!」
八百屋は、ちょっとうるさそうに言った。お由は泣きそうになりながら、また言った。
「あのー、いくら?」
「あんた、何回言わせるのかね、十文だと言っているじゃないか」
お由は、やっと分ったようだった。
「はい、十、文ですね」
「何言ってやがんだ。十文だと言っているじゃないか!」
今度は八百屋のおっさんが聞こえなかったらしい。最もお由の言い方は、口の中で言ったらしい語尾になっていた。お由は慌てて、財布から十文を出すのだった。ああー、買い物ひとつとっても、これでは、あまりに時間がかかり過ぎるね。
それに、耳が悪いことをわかって言っているのかね、この旦那は……。麻衣は、八百屋の旦那の顔を、穴が開くほど見つめるのだった。麻衣がじっと見つめているのを知った旦那は、麻衣に声をかけた。
「そこの娘さん、どうしたかね?」
「いえ、ちょっと考え込んでね」
「何を考え込んでいるのさ?」
「だって、このおかみさんは耳が聞こえないのですよ。もっとわかる方法を考えてくれてもいいんじゃないかしら?」
「え、さいですか?」
「それじゃ、今度からは、銭の書いた紙を差し出すとすらー」と八百屋のおっさんは言ったけど、何だかうるさそうだった。
「それはいいわね」
麻衣はニッコリと笑ったのだった。だが、あの八百屋さんが紙に値段を書いてくれるとは思えない。何か手を打たなくちゃ。帰る道すがら、麻衣は言った。
「あ・な・た・もしっかりしなくちゃ。自分が・耳が聞こえない・ことを、皆に・わかって・もらわなくちゃね」
麻衣は幾分ゆっくり目に言う。
「はい、そうします」
お由も、八百屋の旦那と駆け引きする麻衣に、自分の方から言わなくては、と思ったらしい。固い表情に意思が現れていた。