お野菜一つ買うにしても……
麻衣は翌日傘をさして、その長屋に行った。
黙って戸を開ける。向こうに、娘とは違う姿が立っていた。これがお父さんか?
麻衣はじっと見上げた。男もじっと麻衣を眺めている。そして男は言った。
「今、娘は出かけているのですが」
「いえ、娘さんじゃないのです。あなたです」
麻衣ははっきり言った。
「わたしですか?」
男は麻衣を覗うように、立っている。
「はい、あなたです」
「…………」
男は前に出て来て、上がり框に立った。
「何でしょう?」
「一度会ったことがありますか?」
男には、どこかで会った気がする。何となく親しみを感じる。
男は、麻衣をすかすように見る。麻衣はハッとした。この男は、この前虎谷屋に入った男だと確信したのだ。声が似ている。それに、立ち居振る舞いが軽いのだ。ひょいと逃げるような身軽さがある。どこにそんな身軽さが、と思うかもしれないが、麻衣にはわかるのだった。