お野菜一つ買うにしても……

その日は、朝から雨が降っていた。麻衣は部屋にこもって外には出なかった。何となく、体がしんどいのである。

先日、去る旗本の家に忍びで入ってから、体がおかしくなったように、どんよりしてしまったのだ。

「ああー、おかしい?」

肩を上げたり下げたりして、腕を動かそうと思っても、体が重くて、すんなりといかないのである。

「どうしたのかしら……」

麻衣は考えていた。不審に思うことがある。

先日、夜、お金をばらまきに行ったのだが、みすぼらしい裏長屋だった。初めて見る、その日が精一杯の暮らしを立てているような、長屋だった。確か、真ん中あたりの家にお金を少量ばらまいた時だ。何も聞こえなかった。

たいてい、ばらまくと、その家の者が、「ありがたや」とか「神様……」とか「これで命が長引いた」とか言うものだが、その家は何も声がしなかった。明かりがついているのに、声がしなかったのだ。誰もいないのかと思ったが、明かりはついていた。

もしかしたら、あそこは、泥棒の家だったんだろうか。けど、泥棒だとすると、家に明かりがついているのは不自然だ。

あれこれ考えていると、麻衣の頭ははちきれそうになる。

「そうだ、確かめに行かなくちゃ」

麻衣は立ち上がった。こんなところで、腕を上げたりする暇はないのじゃないか! 麻衣は町娘の格好で、家を飛び出した。

だんだん元気になってくる。

「ふふん、これがわたしなのよ」

その長屋に着いた。屋根を見上げても本当に、みすぼらしい構えだ。どぶの傍を歩いて行く。今日は雨だから、どぶの臭いも強烈だ。鼻をつまむような臭いの中を、やっと真ん中の家の前に来た。

看板がかかっている。着物仕立てます、という木に書いた看板だ。誰か出てこないかな、と辺りを見回していると、向こうの一軒の戸が開いた。むさくるしい格好の女だった。井戸にお米を洗いに立ったという感じだ。麻衣は近づいた。

「あのうー、あそこの家はどんな人が住んでいるのでしょう?」

女は「何だい、よそ者が」という顔で麻衣を見た。麻衣は、胸から小粒を出して、女の手に握らせた。一朱銀が一つだ。女は、少し笑って、その一朱銀を取った。素早く、胸に収めると言った。

「あそこはね、二人暮らしだよ。お父さんと娘。二人とも耳が聞こえないんだよ。だから静かなもんだ」

と言った。

「えっ、耳が聞こえないんですか?」

「そうだよ、あんた何か用事かね」

「いえ、そうじゃないのですが……」

麻衣は戸惑った。逃げるようにそこを抜けて、慌ただしく外に出た。

「ま、わたしとしたことが……」

外に出て、麻衣は考えた。聞こえないんだったら仕方はないわね。そう思ったが、何か出来ることはないだろうか、と思った。そうだ、紙に書いて、話をしなければと考えた。

家に帰り、半紙に色々書いた。その紙を持って、再びあの長屋に足を運んだのだ。

傘を差しながら、麻衣はその家の前にたたずんだ。

思い切って戸を開ける。薄暗い中から、女が出てきた。年のころは、二十二歳ぐらいの感じだった。顔は、十人並みというところか。案外かわいい顔をしている。

「何でしょう。着物ですか?」

口ははっきりしている。大人になって耳が聞こえなくなったのだろうか?

麻衣は用意していた紙を出した。

「初めてお世話になります。わたしは麻衣と申します。こちらは、二人暮らしだとか……。お父さんと会いたいのですが……」

娘は驚いたようだった。まさか、書いた紙を持ってくるとは。しかも初めての人が……。