だから、私が自己自身であろうとすることを、神に対して、絶望として、罪として認めたとしても、それは決して自己自身(絶望もしくは罪)であろうとすることを放棄するものではなかった。なぜなら、私は自己自身であろうとすることによって、信ずるに至ったのであり、そうであれば、信ずるためには自己自身(絶望もしくは罪)であろうとしなければならないことになるからだった(私は自己自身であることによって、信ずることができ、信ずることによって、さらに深く自己自身でありきることができ、そして、それによって、永遠的なものと一体になることができたのだ)。
だから、私は信ずることに於いて、ただひたすら自分自身でありさえすればよかったのだ。私は反抗することによって、自己自身になる代わりに、信ずることによって、自己自身になることを知ったのだ。そこで私はもはや何ものをも恐れる必要を無くしていた。
たとえ、彼らがそれを反抗と呼ぶとしても、私は信ずることに於いて、自分自身でありさえすればよかったのだ。こうして、私の実存は、信仰の殻の中に、信仰として貫かれることによって、よりいっそう強固なもの、核心的なものとなっていた。やがて、キルケゴールの読書に終始した十七歳の夏休みが過ぎ去って、私の脳は疲労して、どんよりと濁り、キルケゴールの他は何も受けつけなかった。
私は授業を受けても何も理解できなかった。口頭での教師の質問に「わからない」と言うより他に、何も答えることができなかった。彼らはそれを不敬な反逆と見做して激しくなじった。しかし、私は何も悪いことをしているつもりはなかった。ただひたすら自分自身であろうとしただけだった。それが私の信仰の姿だったのだ。
そうして数ヶ月、私は学校のすべてから疎外されて、まったき孤独の中を過ごしていった。公然と学校の営みを放棄して、非難と侮辱の嵐を受けるがままに受け流していった。そして、そんな苦しみの時は流れて、待っていた卒業の時を迎えた。私は卒業式にも出ないで、高校を終え、浪人生活に入って、自由の身になった。