二本松藩
白河城を抜いて北上を続ける新政府軍を阻止しようと、奥羽越同盟は白河の北22キロの須賀川に兵力を集結させた。
二本松藩からも筆頭家老丹羽丹波に率いられた主力部隊が、二本松を離れて南下し、布陣した。しかし、新政府軍の本隊は、須賀川を迂回してその北25キロ、二本松の南10キロの本宮に進出、平潟からの隊も三春方面から二本松の東方に接近した。
須賀川の他にも各地に援軍を出していた二本松藩では、兵力の不足を補うべく、現役を退いていた老人や、兵役年齢に達していない数えで13~4歳の少年までもが、戦列に加えられた。
40~50名と見られる少年たちの多くは、それでも老人部隊や後方部隊など比較的安全な部署に数名ずつ分かれて配属されていた。
実際に戦闘が始まると、老人たちから家に帰るよう言われた者、中には戦闘中に新政府軍兵士から安全な場所へ立ち去るよう言われた者さえいたという。
その中で、22歳の木村銃太郎が隊長を務める一隊だけは別であった。
木村は、藩から命じられて江戸の江川砲兵塾で学んでいたが、事態の急迫で呼び戻され、少年たちに砲術を教えていた。その教室丸ごと25名がそのまま前線に出されることになった。
後に二本松少年隊と呼ばれる部隊である。少年たちは、7月28日の夜、奥州街道の二本松への南の入口である大壇口の小高い丘の上に、大砲1門を据えて守りに着いた。大砲と言っても今日から見れば玩具のような代物である。
翌29日早朝、奥州街道を進む新政府軍の兵士たちが南方の丘陵の斜面に現れた。現在、少年たちが陣を構えていた大壇口の丘に登って見ると、南方3~4百メートルの間は水田が開けた平坦地であり、その先に正法寺の集落、その後ろが丘陵地となっている。
その丘陵の北斜面、大壇口側に、兵士たちが散開して最初は一人二人、そして続々と現れて来る様子が目に浮かぶ。最初に大砲を撃ったのは少年たちのほうだった。
これにより新政府軍側に多少の被害が出たようである。が、たちまち新政府軍の集中砲火が少年たちに浴びせられ、30分も経ずに砲台は壊滅した。
砲や銃の威力が全く比べ物にならなかった。銃太郎は退却すべく指揮していたところを撃たれ、城まで戻れそうにないと知ると、隊員に自分の首を刎ねるよう命じた。
しかし少年たちは皆顔を見合わせ尻込みした。早く早くと責める銃太郎の声に、最後はただ一人30歳を超えていた副隊長がこれを刎ねた。
負傷した少年たちは城を目指したが、城下はすでに新政府軍で埋められていた。
白兵戦で多くが死んだ。後日判明したところでは、隊長・副隊長を除く25名の少年たちの内、9名が死亡している。現在彼らは、他の部隊で戦死した少年たちとともに、城下西方の歴代藩主の菩提寺に葬られている。
少年たちが城に戻ろうとした時、すでに城下が新政府軍に埋められていたのは、東方から城を目指していた新政府軍が、城下に入っていたためである。
東方から二本松に入るには、阿武隈の大河を渡る必要があるが、二本松側の抵抗が弱く、新政府軍兵士たちは、河を渡ると走るように城下に突き進んだという。