奥羽越同盟
白河方面でも、磐城の平潟に新政府軍の増援部隊が到着した。一時会津軍に奪われていた白河城も5月1日には新政府軍が取り返しており、新政府軍は白河を通る内陸路と平潟からの海寄りの道との二方面から、途中の同盟小藩を呑み込みながら二本松を目指して北上、長岡城再奪取の日と同じ7月29日、二本松で合流、たちまち二本松城を落城させた。
北に戻ると、奥羽各地を転々としていた九条総督と澤副総督の一行は、7月1日、秋田藩の久保田城下で会することができた。
秋田藩はもともと勤皇思想の強い藩で、こうなると、さすがに勤王派が活発に動き、藩主佐竹義堯も7月4日、総督に庄内征討の先鋒となることを願い出、藩は列藩同盟を脱退した。ちょうどその時、「正副総督を仙台に帰し、また薩長の兵を追い払うよう」秋田藩に迫るため、仙台藩から秋田に使者が来ていたが、この日秋田藩士に斬殺された。
かくして秋田藩は、庄内藩を中心とする南からの列藩同盟軍との戦闘に入ったが、当初同盟軍側が圧倒的強さを示し、秋田藩領の3分の2を同盟軍が席巻、一帯の住民は戦火に泣くことになった。
7月末には、東からも南部藩が同盟軍として戦闘に加わり、秋田藩領に深く侵入した。
南部藩は、北上して来る新政府軍からは遠くに位置していたが、秋田藩が同盟を脱すると、俄然状況は緊迫した。仙台からは秋田を討つようとの指令が来た。