藩では、同盟に与するか総督に従うか、重臣会議を開くも決着せず、当時藩主の名代として上洛中の家老楢山佐渡を至急呼び戻して、その判断を求めることになった。

楢山は京都で岩倉具視に会っており、その際の岩倉の発言を、「岩倉は薩長の増長を恐れ、対抗勢力としての奥羽越同盟に期待している」と受け取った。西郷にも会ったようだが、西郷については、「軽輩の奴めが」という印象しか持たなかったようである。

佐渡は途中仙台で仙台藩の重臣と打ち合わせた後、盛岡に帰着、直ちに御前会議で秋田討伐を説き、反対する意見をことごとく圧殺したという。

しかし、やがて秋田藩側に新政府軍の援軍が海路続々送り込まれてくるようになると、庄内藩も南部藩も徐々に後退を余儀なくされ、最後は会津藩降伏の翌23日、庄内藩も新政府軍に降伏した。南部藩の降伏は、南部藩の裏切りを怒った総督に容易には受け容れてもらえず、それが認められたのは10月になってからであった。

奥羽越同盟は、同盟諸藩が北上してくる新政府軍に次々と降伏し、ボロボロと崩壊していった。このことに関して、奥羽越の地域では、「××藩の裏切りがあったからだ」といったことが言われ、地域間に長く感情的対立が残ったという。

しかし奥羽越の各藩は最初から一枚岩ではなかった。小藩の中には大藩から「参加しないのであれば、先ず貴藩から血祭りに」と脅されて、加盟した藩もあった。こういう藩は身を縮めてひたすら新政府軍の到来を待っていたであろう。

共同して新政府に会津の宥免を嘆願し、もしもそれによって戦をおこさないですめばと思っていたのが、思わざる攻守同盟にまで引き込まれて、慌てた藩も少なくなかったのではないだろうか。

同盟諸藩は朝廷に反抗しようとしたのではないという。君側の奸、薩長、を除こうとしただけだという。そうであったであろう。

しかし、全国の多くの藩が多少とも同様の薩長への不満を持ちながら、薩長の主導を認めたについては、それが当時の日本の国として止むを得ない選択だとする共通の感覚があったためだと考える。この感覚の有無あるいは強弱の差のために、後日東北諸県の県史などが、自ら、「僻遠の地にあって諸情勢に疎かった」と書かざるを得なくなったのではないだろうか。

徳川慶喜が大政を奉還した時、朝廷はその後の政治の進め方について協議するため、全国の諸侯に上洛を求めた。しかし、ほとんどの藩主は日和見を決め込み、仮病を使って上洛しなかった。

全国に何やら、藩主の罹る疫病が急に流行した。そのような無責任な大勢の中で、薩摩の西郷隆盛や大久保利通、長州の木戸孝允、土佐の坂本龍馬などが懸命に日本の進むべき方向を模索したことは、やはり評価すべきことであったと考える。仙米両藩でそのような模索が行われていたという話は聞かない。