話を戻して、7月27日には、二本松城内で抗戦か降伏か評議があった。論議はなかなか定まらなかったようで、一時は降伏派が多数となったとも言われるが、家老の丹羽一学が同盟諸藩との信義を主張し、一藩城を枕に討死が結論となった。

当時恭順派は筆頭家老の丹羽丹波が須賀川におり、城代の丹羽和左衛門も城外にいて、いずれも評議に参加できなかったということもあったという。

藩主夫人の出自の大垣藩からは恭順の勧めがしばしばあったようである。

評定が終わると、藩主夫人など婦女子を米沢や仙台方面に避難させた。病臥中であった藩主丹羽長国は城を出ることを強く拒み、共に討死すると言い張ったが、嫡子不在のため家名の絶えることを恐れる家臣たちが、28日、長国をその寝ている布団ごと駕籠に押し込み、城から出したという。

28日は、一日戦闘がなかった。これも大垣藩が二本松藩の降伏を待って、本営に攻撃を延ばしてもらったためと言われる。この間に須賀川などから間道を伝って城に戻れた者もあった。

29日の戦闘は昼には終わるという一方的なものであった。城には火が放たれ、重臣のうち丹羽一学、用人丹羽新十郎、城代服部久左衛門の三人は、武器蔵奉行の役宅で鼎座して自決した。

丹羽和左衛門と勘定奉行の安部井又之丞は武器蔵より上方、戦国時代畠山氏の時代に天守閣があったという高処で自刃した。

和左衛門は軍扇を開き、腹を屠ると腸をその軍扇の上に掴み出して死んだ。大城代の内藤四郎兵衛も城門で割腹し、内臓を掴み出したと言われている。

余りに古風に過ぎていた藩であったと言うべきか。