彼は私の本棚から芥川龍之介の写真集を取り出すと、懐かしそうに頁を捲りながら「俺は怠け者だからなあ」としみじみと呟くのだった。
確かに、Fは己の才に溺れ、酒に溺れ、人に依存し、そしていつしか、世の中の塵に塗れ、泥に汚れて、不如意な人生を生きていた。その成れの果てに、雨にそぼ濡れたキリギリスのようになって、死んでいかなければならなかったのだ。
私はかつてそんなFのことを、その生き様の余りの酷さに、自分はあんなアル中とは違う、と思っていたが、私自身一人のアル中として、施設に収容されてみれば、多かれ少なかれ、自分もFと大して変わりのない人生を、歩んで来たと思うようになった。
私も子供の頃に褒めそやされたこともあれば、酒に酔って殴り合いの喧嘩をしたこともあった。私も若かった頃には、青春彷徨の旅をして回ったし、それで友人の家に居候したこともあったのだ。
自分の存在に即して生きようとすることが、世間に受け入れられないことも理解できた。自暴自棄になって死を求めて、世間に挑んでいく心根は、私の中にも潜んでいた。若かった頃には、そんな学生運動にも与したのだ。
何より私もまたこの社会から落伍して、どうしようもなくなった人生を「自分のスキド・ロウ」に生きていた。二人ともこの社会から疎外された「余所者もの」なのには違いなかった。彼も私にそんなよしみを感じたればこそ、私のところに転がりこんできたのだろう。
彼の思い出が一抹の悲しみと共に蘇る時、ふと彼が幼い時にはとても愛された人間であるように思った。あまりにも愛された幼年時代が、余りにも惨めな晩年に変貌していったのだ。そして、彼はボロボロに傷ついたピエロのようになって死んでいった。
彼は世の人たちには精神異常者のように見做されていたが、私にはそれがただの仮面だったように思われる。なぜか私にはFが「俺のあとをついて来るな」とでも言うように、いかにも寂しげに去っていった後ろ姿が思い出されてならないのだ。
Fはそんな悲しみを秘め隠した男だった。そんな人生の陰りは多かれ少なかれ、私にもあるものだった。私は、確かに、彼の悲哀のいくばくかを共有するものには違いないのだ。
そして、そういう私の人生にも、Fと同じように終りが近づいている。私は刻一刻と忍び寄る死の足音に怯えながら息づいている。それにしても、一体Fはどうやってこの恐怖の川を渡ったのだろうか。