悲の断片

第一節 母の思い出

そんな私にとって、母の関わりは何であれ、ただ面倒で下らないことに思われた。母が何を言っても、ただ煩いと思うばかりだった。そんなふうにして、私は知らず知らずのうちに、母の夢と誇りを裏切っていったのだ。

そして、帰郷してから十年も経った頃になって、やっと母は「お前は家のことを何もしない、仕事しかしない」と愚痴(ぐち)をこぼすようになっていた。そして、いつしか二十年の歳月(さいげつ)が過ぎる頃には、母の顔は次第に穏やかさを失って、やがて不満にこわばり、(けわ)しく(ゆが)んでいった。

そして、最後の頃には、もう母と私の間につうじる言葉はなくなっていた。二人の間には真空の空間があるばかりで、怒鳴っても(わめ)いても、私の言葉は母に届かなくなっていた。母はただ口癖のように「お前はいけない、お前はいけない」と激しく拒絶するばかりだった。

私はてっきり母が()けてしまったと思い込み、そんな母を持て余すようになっていった。そして、いつしか私は老いていく母の介護を諦め、母を和歌山の姉に預けてしまった。丁度、私の店が破産した騒擾(そうじょう)にかこつけて、母を厄介(やっかい)(ばら)いしたのだ。

私は母のことを忘れようとし、母からの手紙を封も切らずに()めていった。ふと電話してきた姉の話によれば、母は惚けてなどいず、姉の末娘とよく遊んで、私について思い出話をしているという。私は意外に思ったが、何を今さらと思うより他はなかった。

それに私のアル中は年と共に進行し、四十代もなかばを過ぎると、末期的になっていた。そんなふうで私はそれら母のことごとをほとんど無感覚に受け流していった。そして、母は姉のところで六年過ごしてから肺炎を(わずら)って死んだ。

その日、私はそうとは知らずに、夜明け前の仕事を終えて帰る途中、不意に記憶を失って、どうしていいのかわからなくなり、仕方なく酒を飲んで、そのまま公園で眠ってしまった。昼下がりになって目ざめ、記憶が戻っていて安堵(あんど)したものの、そんな自分を(いぶか)しく思ったものだった。

それが母の死んだ頃のことだったと気がついたのは、またずっとあとになってからのことだった。母の訃報(ふほう)が入ると、私は母に対する罪の意識から酒に酔い()れ、葬式に立とうとしても立てなかった。

そして、酒と共に孤独の闇に沈むことが、なぜか母に対する私の愛情のように思って涙した。そのまま酩酊(めいてい)して、意識を失い、翌朝、ブラックアウト(記憶喪失)の中に目ざめると、不安から逃れるように酒を口に含んで仕事に出かけた。そうこうして、ぼんやりした母の記憶を(いだ)いたまま、一週間ほど、酒に溺れて宿酔の中に過ごしたろうか。

知人から改めて母の死を告げられて、不思議な驚きをもって、それを受け止めた。知人たちは親の葬式を投げた私を、外道(げどう)とも極道(ごくどう)とも呼んだ。後悔の念に襲われたのは、それからまた随分(ずいぶん)と、月日が経ってからのことだった。