神様の俳句講義 その一 

冬麗(とうれい)や私が俳句の神様と初めて会ったのは、明け方だった。

私は、会社員生活を始めた時から、朝の満員電車が大嫌いで、毎朝五時十分に起床し空いている電車に座って会社へ通った。会社を辞めた後も、身体は四十年超の慣習を引きずり、朝早く目が覚めてしまう。もう電車に乗る必要がないので、トイレに行った後も布団の中にいる。

その日も、五時十分に目覚めたが、何となく半分寝て半分目覚めている、そんな妙な気分だった。ふと気がつくと、千利休(せんのりきゅう)が被っているような宗匠(そうしょう)頭巾の五十歳前後の男が私の足元に立っている。体の周囲が光っており、オーラのように見える。胸に頭陀袋(ずだぶくろ)を下げ背中に菅笠(すげがさ)を負っている。

私の眼の焦点が次第に合ってくるにつれ、過去に見かけた人のように思われた。そう、それは与謝蕪村(よさぶそん)が描いた奥の細道への旅立ちの場面の松尾芭蕉(まつおばしょう)の姿だった。お伴の河合曾良(かわいそら)はいない。私は半身を起こした。

「あの、松尾芭蕉さんのようですが、朝早くから何の御用でしょう。私、まだ頭がぼうっとしているのですが」

「こんな格好だが、芭蕉ではない。これはわが仮の姿だ。素顔を人にさらすわけにはいかない事情があるのだ。ところで、俳句を始めて、わりと真面目にやっているが、努力が空回りして、悩んでいる初心者がいるということなので、様子を見に来た。さっそく、一緒に俳句をやってみよう。冬に富士吉田に富士山を見に行ったそうだな。富士山はどのようだったか、話してくれ」

突然の富士山の話で、少したじろいだが、なんとか答えた。

「富士吉田は昔からの登山口で富士山のすぐ麓なので、すごく富士山が大きく見えました。生まれて初めてです、あんなに巨大な富士山を見たのは。まるで、見ている私に富士山が覆い被さってきそうな迫力でした。忘れられないほど感動しました」

「大きく見えたというのは、例えば写真に撮ると、どう写るだろうか」