句材探し

②目にした句や、他の人が句会に出した句にインスピレーションを得て作ることがある。これらの句を、自分だったらどう表現するかと、自分に問いかけてみる。この『自分だったら』という挑戦意識は俳人にとって大切だと思う。興味を惹かれた句を感心してただ読み過ごすだけでなく、読んだ時に受けた刺激をてこに、自分も句にしてみようという、どん欲な試みを行うのである。

例えば、次の句を例にとろう。

雑炊ぞうすいもみちのくぶりにあはれなり 山口青邨やまぐちせいそん

私は小学校の低学年を、父の転勤で秋田県の鉱山の町で過ごしたので、『みちのく』という言葉にすぐ反応する。みちのくぶりとは、今の言葉で言えば、東北的とか、いかにも東北らしいといったところだ。この句には、二つの鑑賞がある。一つには、雑炊は貧しい東北の寒村の庶民の味なので、雑穀などの貧素な具しか入っていない、それをかわいそうだ不憫ふびんだと詠んだとするもの。しかし、これでは俳味がないのではないか。

ある古語辞典をひくと、『あはれ』にはしみじみとした思い、趣深く感じるとあり、さらに、しみじみと心打たれる、すばらしいとも書かれている。岩手県出身である青邨は、同郷の妻の作った雑炊を前に東北の貧しさを嘆いたりはするまい。東京で暮らす作者が、久しぶりにみちのくの昔風の雑炊を味わって、心嬉しく、質素ではあるが栄養十分な熱々の雑炊を心ゆくまで楽しんでいると私は鑑賞したい。この句に触発されて、みちのくぶりの食べ物で、私も一句作ってみた。

母の雑煮ぞうににみちのくぶりよ比内鶏ひないどり入り

私は雑炊ではなく、雑煮を持ってきた。母が正月用着物の上に白い割烹着を着て、一家団欒の食卓に雑煮を運んできた。お椀の蓋を開けると、秋田県特産の比内鶏が入っている。比内鶏は美味だが高価なので、我が家では滅多に口にできない鶏肉だ。母は正月なので、気張って比内鶏を買ったのだ。家族の健康とおいしいものを食べさせたいと願う母の気持ちを察し、また比内鶏に『みちのくぶり』を感じて、私はお代わりをした。秋田県に住んで三年、うちの家族もやっとみちのくの暮らしに慣れてきたなぁという気分で。

山口青邨の句には遠く及ばない出来栄えである。六七七でリズムが今一つだが、練習だからやむを得まい。