雲隠
『源氏物語』には、光源氏が亡くなる場面が描かれていない。光源氏が亡くなるであろう箇所には、本文がなく巻名のみの「雲隠」の巻が存するだけである。これは何を意味するのだろうか。
光源氏が亡くなる場面を想像してみるに、光源氏を哀惜する人は誰もいないであろうということに気づく。紫の上をはじめとする女性たちの多くは、すでに亡くなり、あるいは出家して、光源氏から離れていってしまった。
光源氏の実子は、夕霧、明石の中宮及び冷泉帝の三人であるが、光源氏は、生前、これらの人たちに慈愛あふれる眼差しを向けたことがなかった。だから、これらの人たちが、光源氏を心から哀惜するとは考えられない。
言い換えると、光源氏は、絶望の中で孤独な死を迎えたに違いない。顧みると、光源氏は、「うそつき」で誠実さに欠ける人物であった。そのような人物の孤独な死を描写する意義を、紫式部は認めなかったのであろう。
本文がなく巻名のみの「雲隠」の巻は、紫式部の、光源氏に対する、満腔の皮肉を込めた弔詞であると解する。
源氏物語執筆の動機
永観二(九八四)年、花山帝が即位されて、紫式部の父為時は式部丞に任じられ、蔵人に補された。このとき、為時三十八歳、紫式部十二歳である。その後、為時は、式部大丞に昇進した。
ところが、即位の後わずか二年後の寛和二(九八六)年、花山帝の出家と退位があり、為時は官職を失った。これ以後、長徳二(九九六)年に越前守に任じられるまでの間、為時は散位(位階だけがあって、官職がない)のままであった。つまり、紫式部十四歳から二十四歳までの十年間、為時は失業状態にあった。
花山帝の出家と退位は、藤原兼家が首謀して、その子道兼が帝を騙して実行されたものであった。また、天台宗の僧である厳久もこれに加担した。角田文衛氏によると、為時が住んでいた邸は、堤中納言と呼ばれた曾祖父藤原兼輔から伯父為頼や父為時に伝えられたもので、同じ邸内に父方の祖母(右大臣藤原定方の娘)や伯父為頼とその家族も住んでいたようである。
為時の邸では、花山帝が出家と退位に追いやられた陰謀について、為頼と為時を中心にして、ときには祖母らも交えて、繰り返し論じられた。あるときは悲憤慷慨し、あるときは高級貴族や僧たちの腐敗堕落を嘆き、あるときは復讐の方策をめぐらしただろう。平たく言えば、為時の恨み節である。それが何年も続く。
当然、紫式部の耳にも入る。紫式部は、父為時の憤りに共感して、自らも憤った。紫式部は、清少納言の書いた『枕草子』を読んだだろう。『枕草子』には、中宮定子や定子を取り巻く人々をほめたたえることどもが、るる書き綴られている。
中宮定子は関白道隆の姫君であり、道隆が権力の座にあるのは、父兼家の陰謀によって花山帝を退位に追いやった結果である。紫式部は、中宮定子やその関係者を無批判、無反省にほめたたえる清少納言に対しても、激しい憤りを抱いたに違いない。