あのカードは、2-F全体に呪いをかけてしまったのだ。本当にすべてなかったことにできたら、どんなにいいだろう。でも、そんなことは無理だ。どこに目をそらしても、あの瞬間に襲ってきた嘔吐感―得体の知れない「なにか」に対する恐怖が、闇の底から這いあがるようにして、よみがえってくる。
もちろん、一番つらい思いをしているのは、穂波だろう。葉月は、穂波と特別仲がいいというわけではない。一年生のときのことも、よく知らない。ただ、わりあい席が近いこともあって、休み時間には、それなりにいろいろな話をする。
けっこう鋭いところがあって、へえ、と思うことはときどきある。かといって、自分を主張することはほとんどなく、どちらかといえば、まわりにうまく同調するタイプだ。クラスの中で特別に目立つこともないぶん、浮くこともない。少なくとも、だれかの恨みを買うような―あんなことをされるような子じゃない。
犯人は、もしかして、相手はだれでもよかったのではないだろうか。騒ぎを起こして、その様子を見て、面白がっているだけ―そこまで考えたとき、全身の肌が粟あわ立だつような新たな嫌悪感が襲ってきた。なんだろう、このいやな感じ……。
考えこんだ次の瞬間、葉月は、はっと息をのんだ。その嫌悪感の底にあるものがわかったのだ。それは、安堵だった。そうか、あたしは、ほっとしてるんだ。自分が被害者でなくてよかった―心のどこかでそう思ってる。
けれど、もう一人のあたしは、その安堵の中に逃げこむことを必死にこばみ続けていた。少なくとも、あたしは、あの瞬間、あの場所にいた。まちがいなくあたしも、あの事件にかかわってしまった当事者なのだ。安全地帯に身を置いて、関係ない人間のふりをして、ただ事態を傍観してるだけなんて、そんなことできるわけない。
考えれば考えるほど、やりきれなかった。どうしてだろう。どうしてこんな思い、しなきゃいけないんだろう。こんなことをして、犯人はなにが楽しいんだろう。いつの間にか葉月は、2-Fの教室の前まできていた。
ああ、執行猶予の時間は終わりか―葉月は、皮肉まじりにそう考えて笑おうとしたが、もちろん、うまく笑うことはできなかった。葉月は、おや、と思った。肩先くらいまでの髪をふたつに結んだ女子生徒が、扉の前でうろうろしていた。しきりに爪をかみながら、周囲を気にしている。
しぐさや雰囲気がいかにも幼い。スカーフの学年色を確かめるまでもなく、一年生だとわかった。
「どうしたの? だれかに会いにきたの?」
葉月が声をかけると、女子生徒は「ひゃ!」と叫び、その場から跳びのいた。
「ああ、ごめん。べつに驚かせるつもりじゃなかったんだけど」
「あ、いえ……その……」
女子生徒は、下を向いたまま、しどろもどろで答えた。うわぁ、ずいぶんとまた、シャイな子だなあ……。
「じゃ、あらためてきくけど、きみ、この教室に、なんか用があるんでしょ?」
「はい……」と、女子生徒がうなずく。
「あの……わたし……見たんです」
「見た? 見たって、なにを?」
たずねながら、葉月は、自分の鼓動が突然速くなったのがわかった。女子生徒が、うつむいていた顔をゆっくりとあげた。きつく結んでいた口が、なにかを決意したように開く。
「わたし……木曜に、この教室で―」