そもそも、猿楽の座の活動はその時々でかなりの自由がある。必ず同じ一座の形で活動しなければいけないわけではなく、一部の者だけを率いて小さな座を組み、能を舞いに出向くことも普通に行われていた。

観世の座にしても、結崎の座の中で観阿弥が率いていた一派がやがて独立した座と認められるようになったものなのだ。

そして今でも結崎の座としての活動は続いている。特に興福寺と多武峰(とうのみね)の猿楽は古くから続く重要な催しであり、たとえどこに出向いていようとそのときには参集して役を務めなければならない。

多武峰の役には、不参しようものなら永く座を追われるという厳しい掟が定められているのである。

元雅が観世大夫を継いでからというもの、元重はその独自の活動が徐々に目立つようになっていた。観世座全体の活動に支障が出ない範囲で、自分が為手を務めるような演能の場を今まで以外のところに求めるようになったのである。

そしてその最大の後援者が、将軍義持の弟で、出家して青蓮院(しょうれんいん)門主となっていた義円(ぎえん)であった。そのような有力な後援者を得るということは、観世座全体にとってはもちろん望ましいことである。

座の財政も潤うし、活躍の場が増えれば見所の見る目も変わる。観世の能というものがより華やかに見えてくるわけで、これは存外に大事なことなのだ。

このような場合に、度量の狭い棟梁ならば新しい稼ぎ場を一座全体のものとして召し上げるようなことも世間には珍しくないが、新しい大夫である元雅にはそのようなつもりは毛頭ないし、さらにその上に相変わらず重きをなしている世阿弥も、このことに口を挟む様子は全くなかった。

そういった具合で、義円の御前での能は元重の務めであり、そこに参画する面々は世阿弥の弟である元重の父を始め、元重に近しい者たちの少一座、という体をとりつつあった。

このことが後に大きな問題になろうとは誰も思わなかった。氏信はもちろんのこと、元雅や、世阿弥も、いや、元重当人ですら予想だにしていなかったのではないか。

そしてもう一人、この頃から井阿弥(せいあみ)と名乗るようになった元重の父、世阿弥の弟四郎もまた……。