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家庭教師
「え? 勉強やるの?」
「そうだよ。お母さんのためにもがんばらなくちゃ。少しは勉強して、安心させてあげようよ」
彩さんは気乗りしない顔つきで、
「ねえ、何で勉強なの? そんなことより私、生きていてもマジいいことないんだ。ウザくて。なんか死んでもいいんだ。いつも思っちゃう……」
「駄目だよ! お母さんがあんな状態なのに。そんなこと言ってたら。バチが当たるよ」
「でも、ほんとなんだよ。ウザイんだよ。生きていても!」
「なに言ってんだよ。みんなだって同じだよ。毎日、楽しく生きている人なんかいないよ。病気や障害で苦しんでる人もたくさんいるし。世界には住む家も食べる物もなくて苦しんでいる人も大勢いるし。その点、彩さんなんか、病気じゃないし、立派な家はあるし。もちろん食べる物はあるし。幸せだと思わなくちゃ。それに誰だってみんな苦労してるよ、生きるために。学生なら勉強しなくちゃ駄目だし。大人なら働かなければならないし。そういう努力をしないと、幸せはきてくれないでしょ。僕だって、自慢じゃないけど毎日、新聞配達して、夜は家庭教師をやってる。みんなそうやって苦労しているんじゃないの?」
ついつい熱くなっていろいろしゃべってしまった。しかし、彩さんからは何の反応もなかった。たぶん、彩さんには僕の言葉は、暖簾に腕押しみたいだった。彩さんは、他人の忠告や提言を快く聞き入れる生徒ではない。むしろ反論したり、憮然とした表情で、自分の意思表示をする子だった。
僕は、そういう彩さんに慣れていたから、別に不愉快にはならなかった。それに、僕はあまりしつこく言ったり、強く説諭しないようにした。そういう態度だったから、僕は彩さんにとって気がおけない存在だったのかもしれない。
しばらく沈黙が続いた。すると、彩さんが少し表情を変えて、
「ねえ、聞いて。あんたにまだ言ってないことがあるんだ」
と僕の顔を覗いた。
「なに?」
彩さんは僕の顔は見ないで話し始めた。
「あのさ、ウチの親父、別の家族がいるんだ。先日、あんたも会ったでしょ、従姉妹たちに。あの子たち、実は私の異母姉妹なんだ」
「え? ほんと?」
「ウチは複雑なんだ。ほんとの家族なんかいねえよ!」
「だからお父さん、その家族のために土曜日は帰らないんだ」
「違うんだよ。また別の女ができて。そいつに会うために、土曜日は帰らないんだ」
「え、そうなの? なんか酷いお父さんだね」
大塚家の内情は、僕が思うよりはるかに複雑だった。