家庭教師

シドニーでの生活費や学費は、石神井の自宅の家賃と父親からの仕送りで何とかまかなえそうだ。現地の生活に馴染なじむために、彩さんはシドニー市内でバイトすることも考えていた。

大塚夫人は、術後の回復も順調で抗ガン剤の投与も必要なく、経過観察となった。

こうして、大塚家三人のそれぞれの新しい生活が始まろうとしていた。これから先、三人がどうなるのか、三人に何が起きるかは、誰にもわからない。

ただ一つ、はっきり言えることは、二人が母子水入らずで、異国の地で、日本での生活とは、かなり差違のある別の人生を歩むと言うことだ。

引っ越しの日、僕も手伝いに行ったが、運送業者の人たちが手際よく仕事をこなしてくれたので、僕たちはあまりやることがなかった。僕は家族と一緒に、シドニーに持参する品物の細かい仕分けを手伝った。

僕はお別れの挨拶がくるのをしきりに恐れていた。彩さんがいなくなるのが怖かった。すごく寂しくなるのが容易に予想できたので、とても辛かった。

本当は、時間をかけて将来のことも話しながら、ゆっくり別れの挨拶をしたかった。しかし、いまの状況では、おざなりな別れ方になりそうだ。

急に悔いる気持ちが僕の心を襲ってきた。もっと彩さんとバイクに乗ればよかった。バイクで遠くまで行っておけばよかった。もっといろんな話をしておけば良かった。彩さんと、もっと外出すれば良かった。

僕はこんな無意味な後悔を甦らせていた。しかし、もう手遅れだ。後悔をいくら積み上げても今となってはまったく無益だ。

そうこうしているうちに、天気が西の空から崩れ始めてきた。簡易なお別れになりそうな雲行だ。やがて小雨が降り始めたので、慌ただしい別れとなった。

明日、彩さんはオーストラリアに飛び立つ。

彩さんと大塚夫人の二人は、今夜は成田空港のそばのホテルに投宿することになっていた。電気屋さんの森田さんがあらかじめ用意してくれた車に二人が乗ろうとしたとき、彩さんが僕に、

「あの、シドニーはLINEが使えるから、あとで私にあんたの住所、送って!手紙書くから!必ず書くから!」

と叫んだ。

「わかった。僕の住所、必ず送るよ!」

僕も大きな声で叫び返した。

夫人は申しわけなさそうに、

「ほんと、ありがとうございました。助かりました。貴方には、いろいろお世話になりました。失礼します。お元気で。また、連絡いたします」

そう言って深く頭を下げ、少し涙ぐんだ。

彩さんは黙っていた。わざと目をそらせて他所よそを見ていた。時おり目を手でぬぐっていたから、泣いていたのかもしれない。

僕も涙がにじんできたので、わざと大きな声で、

「それじゃ、彩さん、がんばってね!お母さんは、お体に気をつけてください!」

と挨拶した。夫人はハンカチで涙を拭い、彩さんは何も言わず手を振っていたが、涙が頬に落ちていた。

こうして彩さんたちは慌ただしく日本から離れて行った。