第二章 出会(一)

河原新田の場所や地域の状況について見ておこう。

京王線府中駅を出ると、徳川(とくがわ)家康(いえやす)が寄進したという欅並木が目に入る。並木道を南に進むと甲州街道に面した大國魂神社の大鳥居の前に出る。

そこから甲州街道を西に三百メートルほど進むと府中街道との交差点である。南西の角に江戸時代の高札場がある。この辺りが府中宿の中心だったところである。さらにおよそ二キロメートル先には本宿村の集落があった。

交差点を左に折れ、府中街道を南下すると長い下り坂になる。この坂を下ると多摩川の沖積低地が堤防まで広がる。この台地と低地の境が府中崖線(通称 ハケ)である。この付近ではハケの高さは八メートルほどである。崖線は府中市全域を東西に走っており、高いところでは十メートルを超える。

府中街道の府中本町駅入口交差点を右折してハケ下の道を西に進むと、そこは往古の甲州街道である。およそ二キロメートルで本宿一里塚跡(現NEC府中事業場敷地内)に着く。

このハケ下の低地は、多摩川と浅川の広大な氾濫原で度々洪水に見舞われていたところであり間嶋(あいじま)、中河原、()(ばい)河原(がわら)、下河原、押立(おしだて)などの地名がその痕跡を物語っている。河原新田はこの広大な氾濫原の中にあった。

天明三年(一七八三)八月、天明二年の全国的な凶作からはじまり、同三年五月の浅間山噴火でピークに達した天災によって天明の大飢饉がはじまろうとしていた。