アンドレは絵の前に佇むと、たった一言だが静かにこう呟いたんだ。
『神秘性の中にも論理的構成を感じ、次の時代の予兆を告げる絵だ』
いつもは饒舌で、歯に衣着せぬ論評で知られるアンドレにとって、このたった一言だけの講評とは実に意外な結末だった。偶然にも、彼を取り巻く観衆の中にいたピエトロとアンナは、もちろん彼にそう評価されたことは嬉しいに違いなかろうが、これが今後どういう結果をもたらすことになるか、正確には予測できなかっただろう。
だがね、同じ会場で、少し離れたところからその一部始終を観察していた私は、ついに天才画家ピエトロ・フェラーラ誕生の第一幕が切って落とされたことを確信していたんだ。
翌日発行された多くの新聞では、この大型新人のデビュー作、《邂逅―緋色を背景にする女の肖像》と、ミッシェル・アンドレが洩らした、たった一言の論評、〝次の時代の予兆を告げる絵〟を取り上げて、素晴らしいものに多くの説明は不要と論じていたことを今でも良く覚えているよ。
その一週間後のこと、フィレンツェのフェラーラのもとに一通の手紙が届けられた。それはロイド財団と記され、蝋で封印された立派な書簡だった。
アンナさんが開封すると、厚紙の羊皮紙にクラシックな書体で書かれた一枚の書類が同封されていたという具合だ。
《ロイド財団は一九六六年の新人大賞に〝邂逅―緋色を背景にする女の肖像〟と題された、貴殿の絵を推挙することに決定いたしました。本日はまことにおめでとうございます。
ピエトロ・フェラーラ 殿
一九六六年ロイド芸術祭実行委員会
ロイド財団会長 エドワード・ヴォーン
芸術祭実行委員長 エドガー・ビーン
絵画部門審査委員長 ミッシェル・アンドレ》
※本記事は、2020年8月刊行の書籍『緋色を背景にする女の肖像』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。
【登場人物】
宗像 俊介:主人公、写真家、芸術全般に造詣が深い。一九五五年生まれ、46歳
磯原 錬三:世界的に著名な建築家一九二九年生、72歳
心地 顕:ロンドンで活躍する美術評論家、宗像とは大学の同級生、46歳
ピエトロ・フェラーラ:ミステリアスな“緋色を背景にする女の肖像”の絵を26点描き残し夭折したイタリアの天才画家。一九三四年生まれ
アンナ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラーの妻、絵のモデルになった絶世の美人。一九三七年生まれ、64歳
ユーラ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラの娘、7歳の時サルデーニャで亡くなる。一九六三年生まれ
ミッシェル・アンドレ:イギリス美術評論界の長老評論家。一九二七年生まれ、74歳
コジモ・エステ:《エステ画廊》社長、急死した《ロイド財団》会長の親友。一九三一年生まれ、70歳
エドワード・ヴォーン:コジモの親友で《ロイド財団》の会長。一九三〇年生まれ、71歳
エリザベス・ヴォーン:同右娘、グラフィックデザイナー。一九六五年生まれ、36歳
ヴィクトワール・ルッシュ:大財閥の会長、ルッシュ現代美術館の創設者。一九二六年生まれ、75歳
ピーター・オーター:ルッシュ現代美術館設計コンペ一等当選建築家。一九三四年生まれ、67歳
ソフィー・オーター:ピーター・オーターの妻、アイリーンの母。
アイリーン・レガット:ピーター・オーターの娘、ニューヨークの建築家ウィリアム・レガットの妻。38歳
ウィリアム・レガット:ニューヨークでAURを主催する建築家。一九五八年生まれ、43歳
メリー・モーニントン:ナショナルギャラリー美術資料専門委員。一九六六年生まれ、35歳
A・ハウエル:リスボンに住む女流画家
蒼井 哉:本郷の骨董店《蟄居堂》の店主
ミン夫人:ハンブルグに住む大富豪
イーゴール・ソレモフ:競売でフェラーラの絵を落札したバーゼルの謎の美術商