謎多き天才が残した一枚の絵画をめぐる、
超大作アート・ミステリー。
写真家の宗像は、偶然訪れたロンドンの画廊で、一枚の肖像画に心を奪われる。絵画の名は、夭折した謎多き天才画家ピエトロ・フェラーラの「緋色を背景にする女の肖像」。フェラーラの足跡を追い求めてたどり着いたポルトガルの地で、宗像は美術界を揺るがす秘密に迫っていた。美術界と建築界に燻るスキャンダル。その深部と絵の謎が交錯していく。アートに翻弄された人々の光と影を描き出す、壮大なミステリードラマを連載でお届けします。
阿佐見昭彦氏の小説『緋色を背景にする女の肖像』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋。心地が取り出したパレットにはピエトロ・フェラーラのサインがあった。しかしそのパレットには不可解な点がありーー。
邂逅─緋色を背景にする女の肖像
女史は机の右端に置かれた薄い木の箱を二人の前に差し示した。
縦三十センチメートル、横五十センチメートル、厚さ八センチメートルほどの木箱である。明るい木の表面にはニスが施され、真鍮製の小さい二枚の兆番と、二組の簡易なクレセントで施錠されていた。
「さあ開けてみろよ」
心地の急かす声に押され、クレセントを回転させて蓋を開くと、厚手の黒いベルベットで内張りされた中から、二つに折りたたんだ木の板が出てきた。
「パレットだ。フェラーラのものだそうだ」
心地は得意そうにそう言って箱からパレットを取り出した。裏返して見せると、そこにはピエトロ・フェラーラのサインと日付1969が書き込まれていた。
女史が言った。
「エジンバラ市がフェラーラの絵を買い上げたとき、彼がそのお礼として市に寄贈したものだそうです。ですから求めに応じて特別に彼のサインが入っているのです。現館長のウィックさんが若い頃、係としてその式典に立ち会っていたそうです。
授賞式の日、セレモニーの一つとしてその場でご本人に書き入れていただいたのです。三十年以上も美術館の倉庫で眠っていたこのパレットに描かれたサインと、画集にある絵に描かれたサインとを、私どもの鑑定室で照合しましたら、同一のサインであると認められました」
「このパレットに何があるのだ? 心地、もったいつけないで言ったらどうだ」
「まあ、あせるな。実はこのパレット……手に取って良く見ろ。少し変わっているとは思わないか?」
宗像がパレットを手に取り、そっと開くとかすかに古臭いテレピン油の臭いが鼻をついた。しかしあちこち見回したが何が特別のことなのか分からない。
「何だ? 分からんよ」
「ちゃんと手に持ってみろよ」
「こうか?」
「次は筆を持ってみろ。さあ、この万年筆を筆と思って……」
そう言いながら、心地は内ポケットから、やおら万年筆を取り出して宗像に差し出した。
「よし、こうか……? いや、これでは描けないぞ。左手に筆ではな。そうか、パレットを左手に持ち替えれば良いのか」
しかしパレットは宗像の左手にうまく収まらなかった。パレットに穿たれた、親指を入れる穴の位置が逆だったのだ。
「そうなんだ。このパレットは左利き用だ。だからな、フェラーラは左利きの画家ということが分かった」
「なに左利き? ちょっと待て、フェラーラは右利きだ。そら、これを見ろ」
【登場人物】
宗像 俊介:主人公、写真家、芸術全般に造詣が深い。一九五五年生まれ、46歳
磯原 錬三:世界的に著名な建築家一九二九年生、72歳
心地 顕:ロンドンで活躍する美術評論家、宗像とは大学の同級生、46歳
ピエトロ・フェラーラ:ミステリアスな“緋色を背景にする女の肖像”の絵を26点描き残し夭折したイタリアの天才画家。一九三四年生まれ
アンナ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラーの妻、絵のモデルになった絶世の美人。一九三七年生まれ、64歳
ユーラ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラの娘、7歳の時サルデーニャで亡くなる。一九六三年生まれ
ミッシェル・アンドレ:イギリス美術評論界の長老評論家。一九二七年生まれ、74歳
コジモ・エステ:《エステ画廊》社長、急死した《ロイド財団》会長の親友。一九三一年生まれ、70歳
エドワード・ヴォーン:コジモの親友で《ロイド財団》の会長。一九三〇年生まれ、71歳
エリザベス・ヴォーン:同右娘、グラフィックデザイナー。一九六五年生まれ、36歳
ヴィクトワール・ルッシュ:大財閥の会長、ルッシュ現代美術館の創設者。一九二六年生まれ、75歳
ピーター・オーター:ルッシュ現代美術館設計コンペ一等当選建築家。一九三四年生まれ、67歳
ソフィー・オーター:ピーター・オーターの妻、アイリーンの母。
アイリーン・レガット:ピーター・オーターの娘、ニューヨークの建築家ウィリアム・レガットの妻。38歳
ウィリアム・レガット:ニューヨークでAURを主催する建築家。一九五八年生まれ、43歳
メリー・モーニントン:ナショナルギャラリー美術資料専門委員。一九六六年生まれ、35歳
A・ハウエル:リスボンに住む女流画家
蒼井 哉:本郷の骨董店《蟄居堂》の店主
ミン夫人:ハンブルグに住む大富豪
イーゴール・ソレモフ:競売でフェラーラの絵を落札したバーゼルの謎の美術商