謎多き天才が残した一枚の絵画をめぐる、
超大作アート・ミステリー。
写真家の宗像は、偶然訪れたロンドンの画廊で、一枚の肖像画に心を奪われる。絵画の名は、夭折した謎多き天才画家ピエトロ・フェラーラの「緋色を背景にする女の肖像」。フェラーラの足跡を追い求めてたどり着いたポルトガルの地で、宗像は美術界を揺るがす秘密に迫っていた。美術界と建築界に燻るスキャンダル。その深部と絵の謎が交錯していく。アートに翻弄された人々の光と影を描き出す、壮大なミステリードラマを連載でお届けします。
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秋も深まったある月曜日の朝のこと。高級住宅地としてつとにその名を知られるロンドンのメイフェア地区。その中でも、いかにも由緒正しそうな空気を漂わせるフラットの玄関に一人の女が立っていた。
毎日のことなのだが、彼女はインターホンの隣に彫り込まれた真鍮製の丸いボタンをあちこちと押した後、銀色に鈍く光る鍵を取り出した。左右の刻み具合を確認しているようだったが、やがて鍵穴に差入れて捻ると扉は右側に引き込まれて開いた。
女は素早く鍵を引き抜き、室内に滑り込むように入ると同時に、振り返って周りの様子を窺い、今度は内部のボタンを押して扉を閉めた。
ジーッ、カシャッと、 重厚な音が静かなロビーに響く。そして再び前に向き直ると、扉が開いたまま一階に止まっているエレベーターに近寄った。
ともかくも、まずはそれに乗り込み、先ほどの鍵を四階の印が刻まれた鍵穴に差し込んで右に回すと、扉は静かに閉まって籠が動き出した。わずかに横揺れしながら上昇するエレベーターは、やがてガクンとスピードを落としながら停止した。
扉が開ききるのを確認すると、籠から出て小さいロビーに降り立ったが、どうやらそこは玄関の前室らしかった。彼女は0401と刻印された左側の扉を、先ほど玄関で操作したように開けて室内に入った。
いつものことだが洗濯から始め、その後厨房の掃除に移った。なにしろ老人の一人住まいだったから、流しに置かれた食器などたいした数ではない。グラスが四個と皿が数枚、それにナイフとフォークとティースプーンが一本ずつ。それで全部だった。
手早く洗い終えると、次は壁のタイルを拭き始めた。家政婦の口からリズミカルな鼻歌が流れる。続いて浴室、トイレ、居間と済ませたところで、彼女は軽く首を傾げた。
いつもならこの時間、寝室の扉はまだ閉まっているはずなのに、今日はほんの少し開いていて、前を通ると室内がわずかに目に入ったが、内部に人の気配はなさそうだった。
主人はとても几帳面だったし、ことのほか時間には正確だった。この時間には必ずガウン着姿で、一度は厨房や居間に姿を現していた。家政婦はそれを確認して、朝食の支度を始めるのだった。これまで主人が家を留守にする場合、必ず事前に電話連絡があるか、テーブルにメモ書きがあった。
【登場人物】
宗像 俊介:主人公、写真家、芸術全般に造詣が深い。一九五五年生まれ、46歳
磯原 錬三:世界的に著名な建築家一九二九年生、72歳
心地 顕:ロンドンで活躍する美術評論家、宗像とは大学の同級生、46歳
ピエトロ・フェラーラ:ミステリアスな“緋色を背景にする女の肖像”の絵を26点描き残し夭折したイタリアの天才画家。一九三四年生まれ
アンナ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラーの妻、絵のモデルになった絶世の美人。一九三七年生まれ、64歳
ユーラ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラの娘、7歳の時サルデーニャで亡くなる。一九六三年生まれ
ミッシェル・アンドレ:イギリス美術評論界の長老評論家。一九二七年生まれ、74歳
コジモ・エステ:《エステ画廊》社長、急死した《ロイド財団》会長の親友。一九三一年生まれ、70歳
エドワード・ヴォーン:コジモの親友で《ロイド財団》の会長。一九三〇年生まれ、71歳
エリザベス・ヴォーン:同右娘、グラフィックデザイナー。一九六五年生まれ、36歳
ヴィクトワール・ルッシュ:大財閥の会長、ルッシュ現代美術館の創設者。一九二六年生まれ、75歳
ピーター・オーター:ルッシュ現代美術館設計コンペ一等当選建築家。一九三四年生まれ、67歳
ソフィー・オーター:ピーター・オーターの妻、アイリーンの母。
アイリーン・レガット:ピーター・オーターの娘、ニューヨークの建築家ウィリアム・レガットの妻。38歳
ウィリアム・レガット:ニューヨークでAURを主催する建築家。一九五八年生まれ、43歳
メリー・モーニントン:ナショナルギャラリー美術資料専門委員。一九六六年生まれ、35歳
A・ハウエル:リスボンに住む女流画家
蒼井 哉:本郷の骨董店《蟄居堂》の店主
ミン夫人:ハンブルグに住む大富豪
イーゴール・ソレモフ:競売でフェラーラの絵を落札したバーゼルの謎の美術商