邂逅─緋色を背景にする女の肖像
「さて今回、サインの筆遣いも調べたのですが面白いことが分かりました。このサインには右利きならではの特徴が九十パーセント表れているそうです。鑑定室は特にサインの中の〝F〟の字ですが、左側に縦の線で描かれた部分の頭の入り方、それに〝i〟の字ですが、上にある点の向きなどを含めて数カ所に、右利きとしての著しい特徴が見受けられるそうです。つまり、パレットは左利き用ですし、絵も左利きの画家によって描かれましたのに、サインは間違いなく右利きの字なのです」
「確かにパレットは左利き用だ?」
宗像は額にしわを寄せながら小さく呟いた。
「絵とパレットは左利きの判定で一致する。それではサインは別人が描いたのだろうか? いったいなぜそんな面倒くさいことをしたのかな?」
心地も首を傾げた。
「こういうことも考えられます。絵はあくまでも左手で描いたのですが、サインは、その方が書きやすかったので文字だけは右手で描いたとも……。鑑定の結果ではパレットに描かれたサインと絵のサインは同一人物が描いたということで完全に一致しています」
女史も、こんな例にはお目にかかったことは無いというような顔付きをした。
それにしてもフェラーラの絵には謎が多い。重要な分析結果だったが、パレット問題はこれくらいにしてと言って、宗像は例の難問題を切り出した。
「さて、本題に入りましょう。A・ハウエルについて何か分かったそうですね?」
「そうなんだ。あらゆる情報網を駆使して調べてもらいたいとメリーに頼んだ結果だ。メリー、これは君から説明した方が良いよ。大変な苦労をしたんだから」
心地は軽い興奮をやや抑えながら言った。
「分かりました。でもその前にもう一つ先に済ませなければならないことがございます。フェラーラの油絵についての技巧上の問題です。つまり表層の表現についてです。キャンバスを斜めにスクラッチしている微細な表現の技術ですね。
油絵というものは非常に乾燥しにくい素材で塗られていますから、完全に乾燥するまで数年~数十年くらいかかるともいわれています。それで年を経るごとに、表面に無数のクラクリュールが発生します。
失礼、これは油絵に発生する小さな亀裂・ひび割れのことです。フェラーラの絵は描き上げてから、まだ三十~四十年しか経っておりません。
しかし保存状態にもよるのですが、私どもが所有している#28の絵の表面には無数のクラクリュールが見られます。表層材のサンプリング・テストを行なえば分かることですが、どうも絵の具に何か特別の成分を混入させていたようです。
例えば、ある種の岩石や鉱物の粉などが考えられます。それに、描き上げた絵を、または描きかけの絵を、強制的に早く乾燥させて仕上げたのではないかとも思われます。
もっとも、異種素材を混ぜたために乾燥が早くなったとも考えられます。いずれにせよ、この絵は三、四十歳のはずが、七、八十歳もの年齢になっていると言えるのです。
しかしこの現象は、フェラーラの絵にとってマイナスになっておりません。それどころか独特のマチエールとして浮び上がって、効果的であるとさえ言えますから」
「あれをクラクリュールというのですか?」