変なこともあるものだと思いながら、先に書庫と書斎の掃除を済ませることにした。おおかた朝の散歩かジョギングでも始めたに違いない。だからそのうち戻るだろうと考えた。彼女にとって書庫の掃除は一番嫌な仕事だった。
なぜなら、光の全く入らないその場所はとても陰気だし、おまけに黴臭い匂いが一面に立ち込めていたからだ。
そんな中に長くいるだけで病気になりそうだった。 書庫の掃除を素早く済ませて書斎の前に立つと、彼女はドア越しに中の様子を窺った。何も聞こえなかったが、念のため扉を軽く二回ノックした。
返事がないのを確認すると、ノブを回して扉を内へ押し開いた。
外部に細い格子が縦に組まれた明るい窓が正面に見えている。そしてその窓の前に置かれた、重厚感のあるビクトリア調の大きい机の上に、主人が身体をあずけるように突っ伏して寝込んでいるのが目に入った。
あらあらご主人様、こんな所で寝込むなんて風邪をひきますよと言いながら近寄り、肩口に手をのせようとした家政婦は思わずぎょっとした。
いったん出した右手をあわてて引っ込めると、両手を口の前に合わせて大きく息を呑んだ。彼女が大声を発して部屋から飛び出したのは、ほとんどそれと同時だった。
数分後、救急車と警察官がほぼ同時にアパートに到着した。玄関ロビーで真っ青な顔をして、脅えきっていた家政婦の案内で彼らは書斎に入った。
老人は飴色に黒光りする紫檀で作られた大きい机の上に、両手と上半身をのせ、覆い被さるようにして死んでいたのだ。半ば開いていた右手には拳銃が握られ、その筒先は正面の窓の方へ向けられていた。
※本記事は、2020年8月刊行の書籍『緋色を背景にする女の肖像』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。
【登場人物】
宗像 俊介:主人公、写真家、芸術全般に造詣が深い。一九五五年生まれ、46歳
磯原 錬三:世界的に著名な建築家一九二九年生、72歳
心地 顕:ロンドンで活躍する美術評論家、宗像とは大学の同級生、46歳
ピエトロ・フェラーラ:ミステリアスな“緋色を背景にする女の肖像”の絵を26点描き残し夭折したイタリアの天才画家。一九三四年生まれ
アンナ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラーの妻、絵のモデルになった絶世の美人。一九三七年生まれ、64歳
ユーラ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラの娘、7歳の時サルデーニャで亡くなる。一九六三年生まれ
ミッシェル・アンドレ:イギリス美術評論界の長老評論家。一九二七年生まれ、74歳
コジモ・エステ:《エステ画廊》社長、急死した《ロイド財団》会長の親友。一九三一年生まれ、70歳
エドワード・ヴォーン:コジモの親友で《ロイド財団》の会長。一九三〇年生まれ、71歳
エリザベス・ヴォーン:同右娘、グラフィックデザイナー。一九六五年生まれ、36歳
ヴィクトワール・ルッシュ:大財閥の会長、ルッシュ現代美術館の創設者。一九二六年生まれ、75歳
ピーター・オーター:ルッシュ現代美術館設計コンペ一等当選建築家。一九三四年生まれ、67歳
ソフィー・オーター:ピーター・オーターの妻、アイリーンの母。
アイリーン・レガット:ピーター・オーターの娘、ニューヨークの建築家ウィリアム・レガットの妻。38歳
ウィリアム・レガット:ニューヨークでAURを主催する建築家。一九五八年生まれ、43歳
メリー・モーニントン:ナショナルギャラリー美術資料専門委員。一九六六年生まれ、35歳
A・ハウエル:リスボンに住む女流画家
蒼井 哉:本郷の骨董店《蟄居堂》の店主
ミン夫人:ハンブルグに住む大富豪
イーゴール・ソレモフ:競売でフェラーラの絵を落札したバーゼルの謎の美術商