奉公
寛保二(一七四二)年八月、多摩川で大洪水が発生した。
未明から大風が吹き荒れ豪雨となり、一気に多摩川の水位が上がった。濁流が多摩丘陵のすそ野にあたり、山を削り取って流路が変わっていった。やがて濁流は連光寺(れんこうじ)村下河原(しもかわら)地区の南側を流れ、一帯を大規模に浸水させた。
またもや畑は洪水をかぶった。収穫どきの夏野菜が泥をかぶり全滅した。
村の水田はまだ稲穂が立っている時期であり、水が引くと被害は甚大なものとはならなかったが、どこの百姓の屋敷も床上まで浸水し、何戸かの本百姓が見切りをつけ、ハケ上の本村に屋敷を移転させた。
平吉一家は移転しなかった。移転する土地も費用がなかったこともあるが、浸水しても取り返しがつかなくなるような屋敷も家財もなかったからである。
初が慣れない畑仕事と洪水の気苦労から初めてできた子を流産した。平吉は悲しむ初を労わり励まし続けた。そのお蔭か、幸いにもその後、三男の子宝に恵まれた。
平吉は子どもの将来を考え、野菜の引き売りで得た金を頭金にして、屋敷裏にまだ手つかずに残る雑木林二反歩を藤左衛門から買い受けた。
所有する土地も増えてようやく明るい兆しが見えたと思った矢先、不幸な出来事が立て続けに起こった。
長男が流行り病で亡くなり、さらに今度は次男が誤って用水堀で足を滑らせ溺死したのである。平吉夫婦は気落ちしてやる気をなくし、愚痴ることが多くなった。
里も気落ちしていた。夫とともに苦労して開墾した畑を何度も洪水にさらわれ、そして共に闘った夫を亡くし、さらに立て続けにふたりの孫を亡くしてしまった。里は仏門に帰依し、小さな庵に住まいながら仏に祈る日々を送りつつ、やがて静かに次郎平の元へ旅立った。