第二章 一日一合純米酒
(十一)
「蔵に戻ってすぐのころは、秀造はもろみになめられてましてなぁ。タンクのもろみが暴れて、言うことを聞かないというので、よく、一喝しました」
「もろみを一喝?」
「そう、鞭でしてね。柳の鞭を鳴らして、奴らを静かにさせたもんです。私の言うことなら聞くんですよ」
かっかっかっと、六五郎は愉快そうに笑った。
「蔵元というのは、誰もがこうなのか?」
玲子は、六五郎の闊達(かったつ)さに、珍しく気圧(けお)されていた。
「この人と、この蔵は特別。他には、こんな蔵はありません」
ワカタは、それが誇りであるらしく、微笑んだ。
「四百年歴史があると言っても、もっと古い蔵もあるのだろう?」
「そういったことでは、ないのです。ここにしか残ってない言い伝えや、しきたり、技術が伝承されているんです」
「?」
「例えば、毎年正月は蔵人をすっかり休ませます。そして、誰もいない酒蔵で、蔵元は跡取りと共に、八塩折(やしお)りの酒を醸すのです」
「八塩折の酒?」
「八岐大蛇(やまたのおろち)を退治するのに、呑(の)ませ、酔わせた酒ですよ」
答える六五郎の笑顔は、能面のようだ。どこか、現(うつつ)を離れて見える。
「神話の話だろう?」
「現実に、わが家には、今なお伝わっているのです」
「一子相伝の技もあります。秘伝玉麹の技術は、口伝でのみ、伝えられているのです」
ワカタの言葉を、肯定するように、六五郎はふふふっと笑った。
「この蔵に肩入れする理由は、それが理由か?」
「凄いロマンですよ。そう、思いませんか」
玲子は渋々、うなずかざるを得なかった。
辺りが、徐々に薄暗くなってくる。ワカタヒデヨシがシルエットになり、黒い影法師に見えてきた。気温も下がってきたのだろう。首筋に、スッと冷気を感じた。
「僕は、自分の人生の三十年間を、すべてサッカーに捧げて来ました。そして、次の十年間で、サッカーに代わるものを、探し続けて来たんです。そして見つけたのが、日本酒。中でも天狼星烏丸酒造。だから、この蔵と田んぼは、どんなことをしても守りたいのです」
ワカタの瞳には、強い光が灯っていた。