プロローグ
山田錦の苗は、まだ若くて青く、夕暮れの空は、群青から橙へと染まりつつあった。
初夏の風が、渡って行くたび、柔らかい葉先が踊った。田植えの直後は、無垢(むく)で美しい。
多田康一は、田んぼのわきに、身を隠していた。ふと、子供時代のあだ名、妖怪『うわん』を、思い出す。ひょうたん顔に、大きな目。物陰に隠れて、人を脅かす妖怪だ。
今の自分に、ぴったりではないか。不届き者の不意を打ち、懲らしめてやる。手塩にかけてる山田錦に、ちょっかいを出す奴は許さない。
七十才を過ぎた今でも、腕力と体力には、自信があった。だてに酒蔵で、五十年以上酒造りをしてはいない。毎日、数十キロの蒸し米を担いで、蔵内を走り回ってきたのだ。
夕暮れ時になり、幾重にも連なる水田は、だんだん薄暗くなってきた。朝の早い農家は、夕食を食べながら、天気予報を見ている頃だろう。見渡す限りの田んぼに、人影一つもなかった。
じわじわと濃くなる田んぼの闇。それを見るうち『田の神』という妖怪も、思い出した。田畑に住み、田んぼを守る妖怪だ。
人の自然への畏怖が、妖怪を産むという。この田んぼを守ってくれるよう、康一は田の神に祈った。
遠くの車の音に気づき、改めて身を伏せた。前方の農道へ、静かに車が走って来る。田んぼの向こう側で停まり、ドアが開いた。ルームランプは、点かない。
康一は、ほくそ笑んだ。いたずら者が、まんまと罠にかかったようだ。
車から黒い人影が、降り立った。田んぼの反対側に屈み込むと、何やら作業をしている。
やがて、黒い影は立ち上がり、田んぼのこちら側へと、歩き始めた。それは、予想通りの行動だった。待っていたかいが、あったというもの。
康一は、暗がりに隠れ、人影が近づいて来るのを、息を潜めて待った。
自分は、妖怪『うわん』なのだ。