第一章 三億円の田んぼ

(一)

一本、百万円以上もする純米大吟醸酒の原料、特級山田錦。その田んぼの草取りは、めったに体験できることではない。とても貴重な機会だった。

喜び勇み、朝早く田んぼに出てきて早々、この騒ぎである。

ふと見ると、大きな覆面パトカーが、向かいの農道に滑り込んで来た。並んで停まっているパトカーを、押しのけるように最前列に停まる。

停止した瞬間、後部ドアから、大柄な女性が、農道に降り立った。一反の田んぼの一辺、三十メートル先の対岸。それでも、地位と意識の高い者だと一目見てわかる。

スラリと伸びた肢体に、ぴったり合った紺のスーツ。美しい黒髪は、ストレートボブ。トオルと同年代だろう。だが、くぐって来た修羅場の数が違う。触れれば切れそうな、抜き身の刀のようだ。

まなじり上がった大きな瞳、鋭い視線で、辺りを眺め渡している。

一瞬遅れて、車の反対側のドアも開いた。中背でコロコロ太った中年男性が、転がり降りて来る。ネズミ色のスーツ。髪は、薄くピッタリと撫でつけてある。体型と裏腹に、動きは滑らかだ。滑るように移動し、女性の後ろに控えた。頭半分、背が低い。

警官が数人、すぐに彼女に駆け寄った。状況報告を、始めたのだろう。

女警察官は、話にうなずきながらも、視線を休みなく辺りに注いでいる。葉子とトオルにも、一瞬視線が止まるが、すぐに通り過ぎた。

が、次の瞬間、黒く大きな瞳がこちらに戻った。凝視されている。

自分が見られているのかと、焦った。だが次の瞬間、彼女の視線が隣に向いているのに気づく。見ていたのは、矢沢タミ子だった。いつの間に、来たのだろう?

「おっかあ、どこ行ってたんだ? 探してたんだぞ!」

トオルの言葉を無視し、タミ子も、女警察官を見つめている。
やがて、二人同時に視線を外した。タミ子が、葉子とトオルに振り向き、ニッと笑う。

小柄で、ふくよか。どことなく、ラッコを思い出す。細い目は、スッと真横に切れ、笑うと顔に刻まれた皺に埋もれた。とうに、七十を過ぎているのに、真っ白な手はふっくらして柔らかい。髪はキュッと一つに、まとめ上げていた。

たった一人で、毎晩、五十人分の料理を切り盛りする店の主。溌剌とした元気なエネルギーが、滲み出ていた。