第一章 三億円の田んぼ
(一)
黄金色の山田錦の穂が、天に向かって美しい弧を描いている。
一方、そのすぐ根元に、青黒く染まった穂が、倒れ伏していた。
『天津風(あまつかぜ)の田に、毒をまいた。残りの山田錦が惜しかったら、五百万円用意しろ』
新聞から切り抜かれた文字列が、ピエロのように踊っていた。
書体も、大きさもバラバラ。右や左に傾いている。不思議に読みやすい文章だが、リアリティがなく、どこか、嘘っぽい。
世界一とも謳われる、烏丸酒造の特級田の片隅だった。世界一の純米大吟醸酒が、生まれる田んぼ。高貴な日本酒になるはずの山田錦の一部が、青黒く染まって息絶えている。
「許せない!」
山田葉子は、まかれた悪意に、押しつぶされないよう、叫んだ。
空に渦巻く雲は、黒く重く垂れ込めている。大気が湿り気を帯びてきた、雨が近い。
腰を屈め、倒れた稲に手を差し伸ばしてみた。雨粒が一滴、頬に落ちて、流れる。
気づくと、湧き出すように、警官が増えてきていた。続々と到着してくる兵庫県警の警官と鑑識官たち。
若い警官が二人、倒れている稲のまわりに、テキパキと黄色いテープを貼っていく。その後、巻尺を引っ張り、田んぼの長さを測り始めた。すぐ横に、土ごと稲の根を掘り起こし、ビニール袋に詰める鑑識官。
手際の良さが、光っていた。誰もが、動きに無駄が無い。
一瞬、背中がザワッとした。
稲の擦れる音。背後に何か、気配が近づいて来る。葉子は、屈んだまま振り向き、身構えた。
山田錦の波が、大きく揺れる。手で掻き分けて顔を出したのは、矢沢トオルだった。
「ヨーコさん、おっかあ知らない?」
のどかな顔で、のんびりした口調。三十半ばのくせに、きょろきょろ母親を探している。
思わず、肩の力が抜けた。
葉子が立ち上がると、背の高いトオルの肩の高さもない。のんきな顔を見上げると、少しカチンときた。
トオルは人の気も知らず、稲穂の頭越し、辺りを見渡し続けている。どこか、餌を探すカラスに似ていた。
だが、確かに最初の警官が着いてから、矢沢タミ子の姿を見ていない。
葉子たちは、三人で烏丸酒造の田んぼへ、雑草取りに来ていた。