群衆を楽しむことができるのは、才能であり、特権であり、快楽であり、幸福なのである。ボードレールはこう断言している。

「詩人は思いのままに自分自身でもあり他者でもあることができると云う、この比類のない特権を享けている。一個の身体を求めてさまようあれらの霊魂たちと同じように、詩人は欲するときにどんな人物の中へでも入ってゆく。彼にとってだけはすべてが空席なのだ。

(中略)

孤独にして思索を好む散歩者は、この普遍的な融合から一種独特な陶酔を引き出す。群衆とたやすく結婚する者は(中略)熱烈な享楽をしるのである」(『ボードレール全集』パリの憂鬱12 群衆)

このように、ボードレールだけは孤独なまま群衆のどの人物にも入っていける。お忍びの尾行者、覗き屋、犯罪者のように。

ところが彼に入ってこられた人間は、彼と霊の交流をするわけではない。“私はお前であるが、お前は私ではない”という具合だ。ボードレールは他者に入り込んでのぞき見するが他者が自分に入ることは許さない。

他人がボードレールの楽しみに興味を持ったり他人がボードレールの中に入ることを拒否した形の融合・結婚なのだ。

「群衆に入っていく」ことについて、かの江戸川乱歩も随筆で言及している。

「映画街の人込みの中には、なんと多くのロビンソン・クルーソーがあるいていることであろう。ああいう群衆の中の同伴者のない人間というものは彼自身は意識しないまでも皆『ロビンソン願望』にそそのかされて群衆の中の孤独を味わいにきているのではないであろうか。

(中略)

私自身も都会の群衆に紛れ込んだ一人のロビンソン・クルーソーであったのだ。ロビンソンになりたくてこそ何か人種の違う大群衆の中へ漂流していったのではなかったか。

彼自身の内に異端者を感じない人間はないのと同じように人は皆ロビンソン・クルーソーである」

(『群衆の中のロビンソン・クルーソー』(江戸川乱歩著、筑摩書房 ちくま日本文学全集019)

つまり、こういうことだ。

群衆の中の浮遊は、群れに自己が溶けこむのではなくあくまでも自己の中で楽しむ、精神のマスターベーションである。また彼は精神を身体より優遇しているわけではなく、彼の言葉は肉体の言葉なのである。だから彼はダンディズムにこだわるのである。

彼は見ず知らずの他人の後ろから「精神」の屋根裏に忍び込みその他人の営みを覗いてほくそ笑んでいるのである。

 

👉『ボードレール』連載記事一覧はこちら

【イチオシ記事】雨でずぶ濡れの女を家に上げた。脱衣所に散乱した下着を見て、パンティーを出してやるのを忘れたことに気づき…

【注目記事】「僕らは相性がいいかもしれないな」——「ためしたら?」と言うと彼は、「僕の可愛いお嬢さん。いけない子だなぁ」と言って…

 

ゴールドライフオンライン(GLO)は、表現者を応援するウェブメディアです。
生身の人間が紡ぐリアルな言葉だからこそ、読者の心を揺さぶる力があると確信しています。
あなたも、"表現者"になってみませんか?
ゴールドライフオンライン(GLO)編集部:glo_henshu@gentosha.co.jp